馮異列伝

馮異、字は公孫、穎川・父城の人である。読書を好み春秋左氏伝と孫子兵法に通暁していた。

漢のが起こったとき、馮異は郡の属官として五県を監督していた。
父城の長官である苗萌とともに城を守り、王莽のために漢の兵を防いだ。
光武が穎川攻略に出向き、父城を攻めたがおちず、巾車郷に兵を籠めた。
馮異は(自分の管轄の)他県へ行くために潜行したところ、漢兵に捕まり捉えられた。
この時、従兄の馮考および同郷の丁綝と呂晏が光武帝に従っていて、皆が馮異を推薦したので、召見される機会を得た。
馮異は言った「私は所詮一人分の働きしか出来ませんので、お役に立てないでしょう。城に老いた母おりますので、願わくば帰していただけないでしょうか。さすれば私の管轄する五県をもって降り、それをもってあなたのに徳に報いたく存じます」
光武「いいよ」
馮異は帰ると、苗萌に言った「今の将軍達は皆、壮士であって屈することなく起ち、横暴なものも多いが、ひとり劉将軍だけはむやみに人を捕らえ略奪することはない。その言葉や挙止を見る限り、普通の人ではなく、帰順すべきだ。」
苗萌「死生命を同じくすると誓ったのであるから、その考えに従います」
光武は南の宛に帰還すると、更始配下の将が十数人ほど父城に攻めてきたが、馮異は堅く守り城は落ちなかった。
光武が司隷校尉となり、父城へやってくると、馮異等はすぐに門を開き、牛酒をたてまつり迎え入れた。
光武は馮異を主簿、苗萌を従事とした。
そして馮異が銚期、叔壽、段建、左隆等を推薦したので、光武は彼ら皆を掾史とし、光武帝に従って洛陽に至った。

更始はことある毎に光武に命じ河北を攻略させようと思っていたが、将軍達は皆これに反対であった。
当時、左丞相である曹竟の子の曹詡は尚書であり、親子で政治にあたっていたので、馮異は光武に彼等と厚く結ぶよう勧めた。
光武が河北に渡れるようになったのは曹詡の力が大きかった。
兄の伯升が更始に殺されてから、光武は敢えて悲しみの色を面に表さなかったが、ひとりの時はいつも亡兄のために精進し枕元には涙の後があった。
馮異ひとり頭を下げ光武を慰めようとした。
光武は押しとどめて言った「滅多なことを言わないでくれ」
馮異はまた折を見て言った。
「天下はひとしく王莽のために苦しみ、漢を思うことは久しいことです。今、更始の将達は暴虐の限りを尽くし、至るところで略奪を働き、民は失望し、頼る者がおりません。今、あなたは一方面の差配を命じられ、恩徳を施すことが出来ます。そもそも桀・紂の乱があればこそ湯・武の功があらわれるものです。人は長期間、飢餓にあれば、満たされ易くなります。急ぎ属官を派遣し、郡県を視察させ、冤罪を晴らし、恵を施されたがよろしいでしょう」
光武はこの意見をを容れ、邯鄲に到着するなり、馮異と銚期を派遣し、早馬に乗せ郡県を宣撫させた。
囚人を検めて審理し、孤児や寡婦の生活を保障し、賦役を避けるために逃げていたが自首してきた者は無罪放免とした。
また郡守や県令を密かに調査し、それぞれ味方か否かを光武に報告した。

王郎が挙兵すると、光武は王朗討伐のためには薊から東南に馳せ向かった。
早朝から夜はおそくまで行軍し、饒陽の無蔞亭に到着した。
寒さが厳しく、兵は皆飢え疲れていた。
馮異は豆粥を煮て献上した。
翌朝、光武は将達に言った。
「昨日は公孫の豆粥のおかげで、飢えからも凍えからもすかっり解放された」
南宮まで来ると、酷い雨風に遭ったので、光武は道傍の空き屋に車を引き入れた。
馮異が薪を抱え、ケ禹が火を熾し、光武は竈の前で着物を乾かした。
馮異はさらに麦飯と 菟肩を奉った。
それからふたたび虖沱河を渡り、信都に達した。
馮異に命じ河間の兵を取りまとめさせた。
帰還すると偏将軍に任命し、王郎討伐に従い、応侯に封ぜられた。

馮異は謙虚で自慢などせず、行軍途中で他の将軍と行き遇えば、その度に車を返して道を譲った。
進退には決まりがあり、全軍のうちでも整然としていることで有名である。
舎を立て休息するたびに、将軍達は車座になり功を誇り自慢しあうが、馮異はいつも1人大樹の蔭で休んでいた。
それゆえ「大樹将軍」と渾名された。
邯鄲を打ち破った後、将の再編成が行われ、それぞれ兵を配属させた。
兵士たちは皆言った「大樹将軍の下に配属されたい」と、 光武はこれを多とした。

馮異は別働隊として鉄脛を北平で撃破し、また匈奴の于林闟頓王を降服させ、引き続き河北平定に従軍した。
そのころ更始は舞陰王の李軼、廩丘王の田立・大司馬の朱鮪・白虎公の陳僑を遣わし、自称三十万の兵力でもって、河南太守である武勃とともに洛陽を守らせた。
光武は北のかた燕・趙を平定しようとした。
魏郡と河内だけが戦禍に遇わず、城郭は完全で穀倉も充実していたので、寇恂を河内太守に任じた。
さらに馮異を孟津将軍に任命し、二郡の兵を黄河のほとりに纏め、寇恂と力を合わせて朱鮪らを防がせた。

馮異はここで李軼に書状を送った。
「私は次のように聞いています。『明鏡は形を照らす所以、往時は今を知る所以』と。
昔、微子は殷を去って周に入り、項伯は楚に叛いて漢につきました。
周勃は代王(文帝)を迎えて少帝を退け、霍光は孝宣を押し立てて昌邑王を廃しました。
彼等は皆天を畏れ運命を知り、いずれが永らえいずれが滅びるかの前兆を見、いずれが廃れいずれが興るかの事のなりゆきを目にしましたが故に、当代に並び無き功をたて、後世にまで名を残したものであります。
仮に長安の更始殿にまだ望み有りとして、愚図愚図しておられたとて、もともと彼と疎遠な貴殿が親近者の列に割り込むことは難しいでしょう。季文殿が今居られる一隅をいつまで守ることが出来ましょうや?
今、長安は壊乱し、赤眉は近郊に迫り、王侯は難を避けようとし、大臣たちは離叛し、綱紀はすでに絶え、四方は崩れ立ち、異姓の首領が並び起こっています。
されば蕭王(光武帝の当時の爵位)は霜や雪を踏みしだき、河北を統治しているのです。今や英俊は雲のごとく集まり、百姓は風のごとく靡いております。邠・岐の人が周の古公亶父を慕ったのも、これには及びません。季文殿、もし成功と失敗を悟り、速やかに大計を建てたならば、古人と並ぶ功績を立て、禍いを転じて福となすのは今であります。
もし猛将が長駆して、貴殿の城を十重二十重に包囲してからでは後悔しても間に合いませんぞ」
もともと李軼は、光武と最初に盟約を結び、その上互いに親しみ合った仲であるが、更始が挙兵してからは、更始について劉伯升を陥れた。長安が最早危うい事は知っているが、降伏しようにも不安が拭えない。なので馮異に返事を書いた。
「拙者はもと蕭王殿と、漢の再興を謀り、死生を共にし、成敗を同じくすることを誓いました。今、拙者は洛陽を守り、貴殿はが孟津の鎮で、ともに扇の要にいる。まさに千載一遇で貴殿と心を合わせていこうと思います。なにとぞ蕭王殿によしなにお伝えくだされて、国を助け民を安んじられるよう助けたいと」
李軼は手紙を取り交わした後、馮異と交戦しようとはしない。
おかげで馮異は楽々と北は天井関を攻め、上党の二つの城を落とし、南は河南の成皋以東の十三県を降伏させ、各地のの軍勢を皆、平定することができた。降服した者は十数万であった。
武勃が一万人余を率い叛いた者たちを攻めると、馮異は軍勢を引きつれ黄河を渡り、武勃と士郷のほとりで合戦し、大いに打ち負かして武勃を斬った。挙げた首級は五千余。
ここでも李軼は城門を閉ざしたまま武勃を救わなかった。馮異は、李軼が本当に味方につこうとしていると見、詳しくに奏上した。光武はわざと李軼の密書を人目に触れさせ、朱鮪に知られるようにした。朱鮪は怒り、人を遣って李軼を暗殺した。そうなると城内は背き合い、降服する者が続出した。

朱鮪はここで討難将軍蘇茂を遣わし、数万の兵をを率いさせ温を攻めさせた。朱鮪自身は数万を率い、平陰を攻め、馮異を誘い出そうとする。
馮異は校尉、護軍将軍を派遣し、寇恂と合を合せ蘇茂を討たせ、打ち勝った。
馮異はそこで黄河を渡り朱鮪を攻撃し敗走させた。
馮異は洛陽まで追撃し、城を一巡りしてから引き揚げた。
檄文を飛ばして状況を報告すると、将軍達は光武のところに祝いを述べに来て、ついで帝位に即くよう勧めた。光武は馮異を鄗に召し寄せ、四方の動静を問うた。馮異は言った。
「三王が叛き、更始はそれを討とうとして逆に敗れました。今、天下には主人がなく。国家の安危はあなた様にかかっておいでです。皆の意見に従われるのが国のため、民のためになります。」
光武「わたしは昨晩、赤き龍に乗って天に昇る夢を見、目が覚めても胸が高鳴っていた」
馮異はそこで席から滑り降り、再拝し、賀を献じ言った。
「これぞ天命が精神に発露したもの。胸の高鳴りはあなた様の慎重なご気性ゆえです」
馮異は遂に将軍達と相談の上天子の尊号を光武に奉った。

建武二年春、帝は馮異を改めて陽夏侯に封じた。
馮異は兵を率い陽翟の賊、厳終および趙根を討ち、これを破った。
勅命があり、墓参のために帰郷することを許された。
帝は太中大夫を遣わし、牛肉と酒を届けさせ、二百里以内の太守、都尉以下、および一族の者に参集を命じた。

当時、赤眉、延岑が三輔を荒らし回り、郡県の豪族も私兵を擁していた。大司徒のケ禹では平定できない。
そこで馮異を派遣しケ禹と代わらせることにした。天子自身、河南まで見送り、馬車と七尺の宝剣を賜わった。
そして馮異に改めて言った。
「三輔は王莽、更始の乱に遇い、赤眉、延岑に酷い目に会わされ、民は塗炭の苦しみをなめ、訴えるあてもない。
今度の征伐は必ずしも土地を取り、城を落とすためではない。要は平定し、安堵させることだ。
他の将軍達も戦下手なわけではないが、ただ略奪が好きで困る。
そなたはもとから士卒の押さえがよく効いたが、さらに軍規を正し、郡県の民に迷惑がられないように」
馮異は頭を地に擦り付けて拝命し、兵を率い西進した。行く先々、皆、威信が行き渡った。
弘農の群盗で将軍を自称するもが十人余りいたが、皆手下を連れて馮異に投降した。
馮異は赤眉と華陰で遭遇、六十日余り対陣し、数十回も合戦を行い、赤眉の劉始、王宣ら五千余を降服させた。

三年春、帝は使者を馮異のところへ遣り、その場で征西大将軍に任命した。
ちょうどケ禹が、車騎将軍のケ弘らを伴って引き揚げてくるところに出くわした。
ケ禹とケ弘は馮異と会ったのを幸いと引きとめ、一緒に赤眉を攻めようと言う。
馮異は言った。
「私は賊と睨み合い数十日にもなります。たびたび主だった将を捕獲したものの、残りの軍勢もまだまだ多いです。情をかけて少しづつ降伏するよう誘ったほうがいいでしょう。急に軍でもって打ち破ることは難しいでしょう。陛下は貴殿等に黽池に留まれと御下命なさいました。これで敵の東を押さえ伏せ、私が敵の西側を攻める。さすれば一挙に挟撃できます。これこそが万全の計です」
ケ禹・ケ弘は聞きいれず、ケ弘はそのまま大軍で合戦した。
赤眉は負けを装い、輜重を棄てて逃げ出した。
輜重車にはすべて土を載せ、その上に豆を薄く被せてあった。
漢軍の兵士は飢えていたので、先を争って豆を取り合った。
そこへ赤眉が引き返して撃ちかかり、ケ弘の軍は総崩れとなった。
馮異とケ禹が合力しケ弘を救出し、赤眉は少し退却した。
馮異は「士卒が飢え疲れているから、少し休息したほうが良い」と言ったが、ケ禹は聞き入れず、また合戦を行い、散々に打ち破られ、千人余の死傷者を出し、ケ禹は命からがら宜陽に逃げ帰った。
馮異は馬を棄てて徒歩で逃げ、回谿の阪をよじ登り、旗本数人と陣に帰った。
散り散りになった兵を兵をまとめ、諸方の陣から数万を呼び集め、賊と合戦の時刻を定めた。
元気なものを選び赤眉と同じみなりに変装させ、道傍に伏せておいた。
夜が明けると、赤眉は一万人を繰り出し、馮異の先陣を攻攻める。馮異は僅かな人数を救援に向かわせた。
敵は小勢と見て、引き続き全軍を投入して攻めてきた。
馮異はそこではじめて全兵力を繰り出し大いに勝った。
日が中天を過ぎる頃、賊の気勢が衰えてきたので、伏兵がにわかに立ち上がると、服装が同じようなので、赤眉はもう見分けが付かず、賊軍はあわてふためいて崩れたった。
追撃して、崤山の麓で大破し、男女八万が降伏、残りの人数はまだ十数万あったが、東の宜陽まで逃れそこで降服した。
馮異を労う詔書が出された。
「赤眉を平定した由、士卒にはご苦労であった。はじめこそ回谿に弱りたれど、遂には黽池に奮い立った。『これを東隅に失して、これを桑楡に収む』とはこのことであろう。今に論功行賞を行い、大いなる勲に報いるだろう」

当時、赤眉は降服していたが、他の賊軍はまだ盛んである。
延岑は藍田に王歆は下邽に、芳丹は新豊に、蔣震は霸陵に、張邯は長安に、公孫守は長陵に、楊周は谷口に、呂鮪は陳倉に、角閎は汧と駱谷に、蓋延は[幸攵皿]厔に、任良は鄠に、汝章は槐里に根城を構え、めいめい将軍を自称している。
抱える兵力は多い者で一万余、少ない者で数千人、互いに攻め合っている。
馮異は戦いながら前進し、上林苑に駐屯した。
延岑は赤眉を破ったのち武安王と自称し、州牧や郡守を任命し、関中を我が物にしようと、張邯、任良を引きつれともに馮異を攻撃した。
馮異はこれを撃破し、千余の首をとった。
延岑の側について抵抗していた砦もすべて馮異に投降した。
延岑は逃げて析県を攻めたので、馮異は復漢将軍のケ曄と輔漢将軍の于匡を遣わし迎え撃たせ、これを大破し、延岑麾下の将である蘇臣ら八千余を降服させた。
延岑は遂に武関から南陽に逃げた。

当時、民は飢え、人が人を食い、黄金一斤を豆五升に代える有り様。
道路は不通で、兵糧は届かず、兵は皆、木の実を糧食にあてていた。
勅命が下り、南陽の趙匡を右扶風とし、兵を率い馮異を後援するとともに、絹や食糧を送らせた。軍中は皆「万歳」と叫んだ。
馮異は兵、糧ともにやや豊かになったので、少しずつ、服従しない土豪を退治し、帰順して手柄を立てた者を褒賞した。
すべての敵の首領は京師に送り、その配下は釈放して元の仕事に帰らせた。
馮異の威信は関中に行き渡った。
呂鮪、張邯、蔣震だけは使者を遣して蜀の公孫述の下へ逃げたが、その他はすべて平定した。

翌年、公孫述は将軍の程焉を派遣し、兵、数万を率いさせ、呂鮪を付属させ陳倉に出、駐屯させた。
馮異は趙匡とともに迎え撃ちこれを大破、程焉は漢水へ敗走した。
馮異は追撃し箕谷で会戦しふたたびこれを破り、引き返して呂鮪を破り、営塁に籠もった者で降伏するものは甚大であった。
その後、公孫述は隙を見ては将を派遣するが、馮異はそのたびにこれを挫いた。
民衆を懐柔し、冤罪に泣く者を救い、三年が過ぎない間に、上林苑一帯は都のように栄えた。

馮異は外に出て久しいので不安に思い、上奏して「朝廷が恋しいので、願わくば御側近くで使えたい」と申し出たが、帝は許さない。
その後、次のような密告が文書でもって為された。
「馮異は関中で専断をなし、長安の県令を斬り、その威、権能、共に絶大で、民衆はこれに心を寄せ『咸陽王』と渾名されております」
帝はこの密告書を使者に持たせ、馮異に見せた。
馮異は惶懼し、謝罪の上奏文を奉った。
「私はもともと諸生で、偶然にも天命を受けられるところにめぐりあい、臣下の末席に加えさせていただきましたところ、分を過ぎたご多分な恩を受け、位は大将、爵は侯となり、西方平定の命を受け、些かの功を立てましたが、これらは全て、陛下ご自身の謀るところであり、愚かな私ごときの及ぶところではありません。
思い返せばご下命に従い戦えばいつも思い通りになりますが、時に私見で断行いたしますと、後悔しないことはありませんでした。
陛下の先見の明は、年とともにますます遠くまで見通せられ、まさに『性と天道とを言うは、得て聞く可からざるなり』というこであります。
戦乱が始まり、騒擾の折柄、豪傑はしのぎを削り、帰趨に迷う者は数え切れないほどでした。
私は幸運にも聖明なる陛下に出会い身を託すことができ、危機と混乱の最中にあっても進退を誤るようなことは致しておりません。
まして天下は平定され、上下尊卑の別が明らかとなり、私の爵位は目が眩むほど高く、あえて過ちを犯すでしょうか?
まことに身を謹んでこのまま一生を終えたいと願うのみにございます。
このたび示された密告書を見て戦慄恐懼しておりますが、憚りながら英明なる陛下におかれましては私の性分をご存知の事と存じ、押して伝手を求め弁解させていただきます」
帝は詔を下した。
「将軍と私は、義は君臣なれど、恩は父子のごとし。何を気遣い憚ることがあるだろうか!」

六年春、馮異は京師に朝見し、帝は公卿に向かって言った。
「これは私が挙兵したころの主簿だ。私のためにいばらを切り開き、関中を平定してくれた」
馮異が退出すると、帝は中黄門を遣わし珍品、衣服、銭、絹を賜り、次のような詔書が付してあった。
「かの無蔞亭での豆粥、虖沱河での麦飯、その厚意に久しく報いていなかったので」
馮異は頭を下げ礼を述べた。
「私はかように聞いております。昔、管仲は桓公にこう申しました。
『願わくば、君には鉤を射られた時の苦労をお忘れなきよう、私も檻車から出していただいたご恩を忘れませぬ』
斉の国は管仲により覇者となりました。私も今、こう申し上げたく存じます。
願わくば、陛下は河北での難儀をお忘れなきよう、私も巾車で救っていただいたご恩を忘れませぬ」
その後、馮異はたびたび帝の居室に招かれ、蜀の公孫述対策の協議をおこなった。
都に滞在すること十日余り、馮異の妻子に詔が下り、馮異と共に西へ帰還した。

夏、帝は将軍達を派遣し隴へ向かわせたが、隗囂に敗れるところとなったので、馮異に命じ栒邑に陣を構えさせた。
馮異がまだ到着しないうちに、隗囂は勝ちに乗じ、将軍の王元と行巡を遣わし、二万余を率いさせて隴から東下させ、行巡に栒邑を取らせるようにした。
馮異は直ちに兵を派遣し、先に栒邑を抑えようとした。
将軍達は口を合わせて言う。
「敵は数も多く、勝ちに乗じているので、まともにぶつかっては敵わないでしょう。ここは陣を便利なところに置き、それから策を巡らせましょう」
馮異は言った。
「敵は臨境まで来ており、小さな勝ちに馴れ、引き続き深入りする気でいる。
もし栒 邑を失うようなことになると、三輔は浮き立つだろう。私はそれが気がかりだ。
総じて『攻める者は足らず、守り余りあり』という。
今は先に城を押さえ、敵の疲れを待つのだから、まともに戦うことにはならない」
密かに進み、城へ入り、門を閉じて旗や鼓を伏せておいた。
行巡は知らずに城へ馳せつける。
馮異はその不意をつき、兵に戦鼓を打たせ、旗を立てさせ、敵に斬り込ませた。
行巡の軍は混乱し逃走、馮異は十数里追撃してこれを大破した。
祭遵もまた王元を汧で破った。
ここにおいて、北地の土豪の耿定らは皆、隗囂に反き降伏した。
馮異は上奏して報告したが、己の手柄は一切記していなかった。
他の将軍達の中には馮異の手柄を横取りしようとするものが出るかもしれないと帝は憂い、詔勅を下した。
「大司馬・呉漢、虎牙将軍・蓋延、建威将軍・耿弇、漢中将軍・王常、捕虜将軍・馬武、武威将軍・劉尚に告ぐ。
このたび、敵兵がわき、三輔は恐慌した。
栒 邑の命運は旦夕に迫ったが、北地の諸軍の営塁は様子見を決め込み援軍を出そうとはしなかった。
今、辺境の城を全うし、敵の鋭鋒を挫き、耿定らを再び服従させ臣下とさせた征西大将軍の功績は山の如きものがあるにもかかわらず、(馮異は)未だに働きが足りないと思っている。
孟之反が負け戦の殿軍の功を誇らなかったのと馮異のどこが違うのだろうか?
今、太中大夫を遣わし、征西大将軍の士卒で死傷した者に医薬と棺を下賜する。
大司馬以下は自ら死者を弔い、傷病兵を見舞い、謙譲の徳を心がけよ」
ここにおいて馮異を義渠へ進軍させ、北地太守を兼任させた。

青山のえびすが一万余を引きつれ馮異に投降してきた。
馮異はまた盧芳の将である賈覽、匈奴の薁鞬日逐王を撃ち、これを破った。
上郡、安定は皆平定され、馮異は安定太守も兼務することとなった。
九年春、祭遵が亡り、詔により馮異は征虜将軍を兼任し、その部隊を合せて指揮することとなった。
隗囂が死ぬと、王元、周宗らは隗囂の子の隗純を立て、兵を擁し冀県に拠り、公孫述は趙匡を援軍として使わした。
そこで帝は馮異に天水太守も兼任させ、趙匡らを攻めさせ、およそ一年ほどで趙匡らを斬った。
将軍達はともに冀を攻めたが、抜くことは出来ず、一旦引き上げ兵を休めようとしたが、馮異は聞かず、常に先陣を承った。
翌年夏、将軍達とともに落門を攻めたが抜くことは出来ないうちに、病気となり、そのまま陣中で亡くなった。
謚して節侯という。長子である馮彰が爵を継いだ。

明年、帝は馮異の功績を思い、ふたたび馮彰の弟の馮訢を析郷侯に封じた。
十三年、改めて馮彰を東緡侯に封じ、三つの県を食邑として下賜した。
永平年間に平郷侯に国替えとなる。
馮彰がなくなると子の馮普が継いだが、罪を犯し所領は没収された。

永初六年、安帝はは次の詔書を下した。
「そもそも仁者は親戚のことを忘れず、義人は功労者を忘れないものである。
滅んだ国を興し、絶えた世代を継いでやり善人に対する恩賞をその子孫にまで及ぼすのは、昔からのしきたりである。
昔、わが祖、光武帝は天命を受けて漢朝を再興させ、聖代の緒口をひろめた。
恵は四方にあまねく、光は天地に届いた。
勲は万世に輝き、福運は流れ溢れて、限りなく続くであろう。
予は不肖ながら、朝な夕なに将来を思い、先人の功績を追慕している。
図書を披き見るに、建武の元勲の二十八将は、王業を補佐する勇猛の臣として、未来記にも、その前兆は見えていた。
思うに、蕭何、曹参の子孫は所領を受け継いで、今に伝わっている。
まして、今を去ること遠からぬ名臣が、或いはその祭も絶える有様に立ち至っているのは、甚だ痛ましい。
いざ二十八将について箇条書きにして差し出せ。
後継ぎがなくて断絶となった者、もしくは罪を犯して国を召し上げられた者で、その子孫に後を継がせて良い者があれば、それぞれ別に書き出して差し出すが良い。
景風が吹く間に、旧臣の徳を明らかにし、忘れられた功績を褒賞したいと思う」
ここで馮普の子、馮晨に昔の所領を継がせて平郷侯とした。
明年、二十八将で所領の絶えていた者は全て子孫に後を継がせることとなった。