賈復列伝


賈復あざなは君文、南陽冠軍の人である。
若くして学問を好み、尚書を習い、舞陰の李生に師事し、李生は彼を奇として門人に言った。
「賈君の容貌志気はかくの如きで、しかも学問を好み、まさに将相の器である」
王莽の末、県の掾となり、塩の取引に河東へ出向いた。
たまたま盗賊に遭遇し、同僚達十余人は皆は塩を放ち散じたが、賈復独りだけは無事に県に帰還した。
県では、その信義を称賛した。

時に下江、新市の兵が蜂起し、賈復もまた衆数百人を羽山にあつめ、自ら将軍と号した。
更始帝が立つと、その集めた衆を率いて漢中王劉嘉に帰属し、劉嘉を説いて言った。
「臣聞く、堯舜の事をはかって至る事ができなかったのは湯武(商の湯王、周の武王)であり、湯武のことをはかって至る事が出来なかったのは桓文(斉の桓公、晋の文公)である。桓文のことをはかって至る事が出来なかったのは六国(韓、魏、趙、燕、斉、楚)であり、六国が規則を定め、安んじてこれを守ろうとして至る事が出来なかったのは六国を亡ぼしたもの(秦)である。今、漢室は中興し、大王は親戚を藩輔とし、天下は未だに定まらず安んじて保っている所を守ってはいるが、保っているところは保ち得ないでしょう」
「卿の言葉は壮大であり、私の任務ではない。大司馬の劉公(光武帝)は河北にいる。必ず互いの助けとなるだろう。我が書簡を持って行くが良い」
賈復は遂に劉嘉のもとを辞し、書を受けて北の黄河を渡り、柏人で光武帝に追いつき、ケ禹のはからいで召見にあずかった。
光武帝は賈復を奇とし、ケ禹もまた将帥の節があると称した。
ここにおいて賈復を破虜將軍の督盜賊に署した。
賈復の馬がやつれていたので、光武帝は左の驂(そえうま)を賈復に賜った。
官属、賈復が後から来たのに好んで同僚を凌ぎ挫いたので、同僚達は鄗の尉にとばそうとしたが、光武帝は言った。
「賈督には千里に折衝する威が有る。まさに任命するにはこの職しかないだろう。勝手な事をするでない」

光武帝が信都に至ると賈復を偏将軍とした。
邯鄲を抜くと都護将軍に遷った。
従軍して青犢を射犬で撃った。
大いに戦い正午になったが、賊は陣を堅くしてひかなかった。
光武帝は伝令を遣って賈復を召して言った。
「吏士皆飢えておる。ひとまず朝食にしようではないか」
賈復は言った。
「先ず賊を破ってから食べることにしましょう」
ここにおいて羽で作った旗を背負って先 し、向かうところ皆靡き、賊は敗れ去った。
諸将は皆その勇に感服した。
また北方で五校と真定で戦い、大いにこれを破った。
賈復は重傷を負った。
光武帝は大いに驚いて言った。
「私が賈復を別軍の将としなかったのは、敵を軽んじるからである。果たしてこうなった、私は名将を失う。その妻が孕んでいると聞いた。女が生まれたなら、我が子が娶らせよう。男が生まれたなら我が娘を嫁がせよう。だから妻子のことを憂える必要はないぞ」
賈復は傷が癒えると、追っかけて薊で光武帝に追いついた。
互いに見て甚だ喜び、大いに士卒を饗し、賈復を前に居らせた。
鄴の賊を撃ってこれを破った。

光武帝が即位すると、執金吾を拝命し、冠軍侯に封じられた。
先んじて黄河を渡り朱鮪を洛陽に攻め、白虎公陳僑と戦い、続けざまに破ってこれを降した。
建武二年、穰と朝陽の二県を加増された。
更始帝の郾王である尹尊および諸大将は南にいて降伏しない者がまだ多かった。
帝は諸将を召して兵事を議し、何も言わず、長い事考え込み、檄で地面を叩いて言った。
「郾が最も手強く、宛がその次だ。誰がこれを撃つべきか」
賈復は出し抜けに答えた
「私に郾を撃たせていただきたい」
帝は笑って言った。
「執金吾が郾を撃つのなら私は何を憂えることがあろうか 大司馬(呉漢)は宛を撃つべし」
遂に賈復を遣わして騎都尉の陰識、驃騎将軍の劉植とともに南の五社津を渡り郾を攻撃させ、これを破った。
一月余りで尹尊は降り、その地はことごとく平定された。
東進し更始帝の淮陽太守である暴を撃った。
暴は降り、属県はことごとく安定した。
その秋、左将軍に遷り、別に赤眉を新城、澠池間で撃ち、これを破った。
帝と宜陽で会見し赤眉を降した。

賈復は征伐に従い、未だ敗れた事が無く、しばしば諸将とともに敵の包囲を破り危急を救い、身体に十二の創をうけた。
帝は賈復が深く敵中に突入することから、遠征させることはまれであったが、その勇気と節義を壮として、常に自らこれに従い、そのため賈復は方面の勲は少なかった。
諸将はいつも功績を論じ自らを誇ったが、賈復は未だ嘗て言ったことが無かった。
すなわち帝は言った。
「賈君の功績は私が良く知っている」

十三年、膠東侯に封じられ、郁秩、壯武、下密、即墨、梃、觀陽のおよそ六県を食邑として定められた。
賈復は帝が干戈を偃せ、文徳を修めたいと欲し、功臣が兵を京師に擁することを欲しないことを知り、高密侯ケ禹と並んで甲兵を削り、儒学をあつくした。
帝はこれをもっともだとして、遂に左右将軍を廃した。
賈復は列侯として邸に就き、位特進を加えられた。
賈復の人となりは剛毅方直で大節が多かった。
私邸に還ると、門を閉ざして威厳を養った。
朱祜等は賈復は宰相となるべきだと推薦した。
帝は実務が出来るものに三公を任せたので、功臣は用いられなかった。
この時、列侯はただ、高密(ケ禹)、固始(李通)、膠東の三侯だけは公卿とともに国家の大事を参議し、恩遇は甚だ厚かった。
三十一年、亡くなり、剛侯と謚された。


子の賈忠が嗣いだ。
賈忠が亡くなり、子の賈敏が嗣いだ。
建初元年、母が人を殺したと誣告されたのに連座して国を除かれた。
粛宗はあらためて賈復の小子の賈邯を封じて膠東侯とし、賈邯の弟の賈宗を即墨侯とし、各々一県である。
賈邯が亡くなり、子の賈育が嗣いだ。
賈育が亡くなり、子の賈長が嗣いだ。

賈宗あざなは武孺。
わかくして品行にすぐれ、智略に長けていた。
初め郎中を拝命し、ようやく遷って建初年間に朔方太守となった。
もともと内郡に住んでいて辺境に移った者はおおむね貧弱で、多くは居人に使役される者となり吏となることが出来なかった。
賈宗はその職にたえることが出来る者を擢用し辺吏とともに官吏の選抜を行い、互いに監察させ悪事を摘発させた。
あるいは功次に長吏を輔佐させたので、各々死を尽くしたいと願った。
匈奴はこれを畏れ、敢えて塞に侵入しなかった。
徴されて長水校尉となった。
賈宗はかねて儒術に通じ、讌見するたびに常に少府の丁鴻等とともに御前で論議させた。
章和二年亡くなり、朝廷はあわれみ惜しんだ。
子の賈参が嗣いだ。
賈参が亡くなり、子の賈建が嗣いだ。
元初元年、和帝のむすめの臨潁公主をめとった。
主はかねて潁陰と許を食み、合わせて三県、数万戸である。
時にケ太后が臨朝し、光寵は最も盛んで、賈建を侍中とした。
順帝の時に光祿勲となった。