景丹列伝


景丹あざなは孫卿、馮翊櫟陽の人である。
若くして長安で学んだ。
王莽の時に四科に挙げられると、景丹は言語により固徳侯の相となり、幹事のほまれがあった。
朔調(上谷)連率(太守)の副弐(次官)に遷った。

更始帝が立つと、使者を遣わして上谷をめぐらせた。
景丹は連率の耿況とともに降り、復た上谷の長史となった。
王朗が起つと、景丹は耿況と謀ってこれを拒いだ。
耿況は景丹に子の耿弇及び寇恂等とともに兵を率いて南の世祖に帰属させた。
世祖は景丹等を引見し、笑って言った。
「邯鄲の将帥はしばしば言っている、(光武帝を防ぐために)漁陽、上谷の兵を発するだろうと。私も応じて二郡の兵を発するだろうと言っていた。思いもしなかったよ、二郡が本当に私のために来るとは。士大夫と功名を共にしようではないか」
景丹は偏将軍を拝命し、奉義侯と号した。
従軍して王朗の将の児宏等を南讀で撃った。
朗兵は迎え戦い、漢軍は退却した。
景丹等は突騎をはなち攻撃し、これを大破し、奔る敵を追撃する事十余里、死傷した者は散乱していた。
景丹が帰還すると、世祖は言った。
「私は突騎が天下の精兵であると聞いており、今その戦いを見た。楽しいと言って良いであろうか(反語)」
従軍して遂に河北を征した。

世祖が即位すると、讖文を理由に孫咸を大司馬に用いた。
衆皆な悦ばなかった。
詔して大司馬と為るべき者を挙げさせると、群臣が推薦したのは唯だ呉漢と景丹だけであった。
帝は言った。
「景将軍は北州(河北平定)の大将で、まさに大司馬に相応しい人物である。しかしながら呉将軍は大策を建てた勲がある。又た苗幽州(苗曾)、謝尚書(謝躬)を誅し、その功績は大きい。旧制では驃騎将軍は大司馬を兼ねていた」
すなわち呉漢を大司馬とし、景丹は驃騎大将軍を拝命した。

建武二年、景丹を櫟陽侯に封じた。
帝は景丹に言った。
「今、関東の故の王国は数県であると雖も、櫟陽の万戸の邑ほどではない。富貴にして故郷に帰らざれば、繡を着て夜に行くがごとしという。だから卿を封じるのだ」
景丹は頓首して感謝した。
秋、呉漢、建威大将軍耿弇、建義大将軍朱祜、執金吾賈復、偏将軍馮異、強弩将軍陳俊、左曹王常、騎都尉臧宮等とともに従って五校を羛陽で撃って破り、その衆五万人を降した。
たまたま陝の賊である蘇況が弘農を攻め破り、郡守を生け捕りにした。
景丹はこの時病んでいたが、帝は蘇況が景丹の旧将であることから、強いて郡の仕事を兼務させようとして、夜に召し入れ言った。
「賊は京師に迫り近づいている。但し将軍の威重を得れば臥せたままでもこれを鎮めることが出来るであろう」
景丹は敢えて辞せず、疾をおして命を拝し、営を率いて郡に至ったが、十余日で薨去した。

子の景尚が後を嗣ぎ、余吾侯に徙封された。
景尚が亡くなり、子の景苞が後を嗣いだ。
景苞が亡くなり、子の景臨が後を嗣いだが、子が無かったために国は絶えた。
永初七年、ケ太后は景苞の弟の景遽を紹封して監亭侯とした。