寇恂列伝


寇恂あざなは子翼、上谷昌平の人で、代々の名家である。
寇恂は初め郡の功曹となり、太守の耿況は彼を甚だ重んじた。

王莽が敗れ、更始帝が立つと、使者を使わし郡国をめぐらせ、「先んじて降った者には爵位を保障しよう」と言わせた。
寇恂は耿況に従い、使者を郡境で出迎えた。
耿況はは印綬をたてまつり、使者はこれを納めたが、一晩泊まっても帰還しようとしなかった。
寇恂は兵を引き連れ入って使者にまみえ、先にたてまつった印綬を請うた。
使者は与えずに言った。
「天王の使者を、功曹は脅そうというのか」
「敢えて使君を脅すわけではありません。ひそかに貴方の計が詳らかでないことを心配してのことなのです。今、天下は初めて定まり、国家の威信は未だ宣びず、使君は節を建て命をふくんで四方に臨み、郡国は頸を延ばし、風邪を望み命に帰服しないことはありません。今始めて上谷に至りまっさきに天子の信義を意味無いものにし、北に向かおうとする者の心をはばみ、離反の隙を生じさせるならば、どうやって他の郡に号令なさるのでしょうか。且つ耿府君は上谷に長い事居り、吏人に慕われております。今、彼を変えれば賢人を得たとしても突然の事で安んずることは難しく、賢人でなければ乱を加速させるだけです。使君のために計れば、太守をもとに戻して百姓を安んじる以外に方法はないかと思われます」
使者は応じなかった。
寇恂は左右の者を叱り使者の命令だと言い耿況を召させた。
耿況がやってくると、寇恂は進んで印綬を取って耿況に帯びさせた。
使者はやむを得ず、制を受けてこれに詔し、耿況は受けて帰った。

王朗が蜂起すると、将を遣わして上谷を攻め取らせ、耿況を急きたてて兵を発しさせた。
寇恂は門下掾の閔業とともに耿況を説いて言った。
「邯鄲はにわかに蜂起しましたが、信用することは出来ません。昔、王莽の時に、はばかったのは劉伯升が独りだけと聞きました。今聞くところによると、大司馬の劉公(光武帝)は伯升の同母弟で、賢を尊び士にへりくだり、士の多くは彼に帰している。彼を頼りにすべきでしょう」
「邯鄲はまさに勢いが盛んであるから独力では拒むことは出来ない。どうしようか」
「今、上谷は充実していて完実していて一万騎の兵力があり、大郡の資力を挙げて詳らかに去就を選ぶべきです。私は東の漁陽と結ぶのを請います。心をひとしく衆を合すれば邯鄲は図るに足りません」
耿況はこれをその通りだとして、寇恂を遣わして漁陽へ行かせ、彭寵と謀を結ばせた。
寇恂が帰還して昌平に至ると、邯鄲の使者を襲撃して殺し、その軍を奪った。
遂に耿況の子の耿弇とともに南下し、廣阿で光武帝と合流した。
寇恂は偏将軍を拝命し、承義侯と号し、従軍して戝賊を破った。
しばしばケ禹と謀議し、ケ禹はこれを奇として、牛と酒を奉じて共に交歓した。

光武帝は南下して河内を平定したが、更始帝の大司馬である朱鮪等は兵を盛んにし洛陽に拠っていた。
また并州が未だに安定せず、光武帝はその守りが難しいと思い、ケ禹に問うて言った。
「諸将のうちで河内を守らせるべき者は誰だろうか」
「昔、高祖は蕭何を關中を任せたので、西を顧みる憂いは無く、そのため山東に専念でき、ついに大業を成す事が出来ました。今、河内は黄河をめぐらして固として、戸口は充実し、北は上党に通じており、南は洛陽と切迫しております。寇恂は文武を備え人をやしない衆を統御する才能があり、この人以外であれば使ってはなりません」
このため寇恂は河内太守を拝命し、大将軍の仕事を代行させた。
光武帝は寇恂に言った。
「河内は富み豊かであるから、私はこれを頼りに起とうと思う。昔、高祖は蕭何を留めて關中を鎮撫させた。私は今、貴方に河内を委ねようと思う。堅く守り転運し、軍糧を給し充足させ、士馬を率いてはげまし、他兵を防ぎとどめ、北に渡らせることがないように」
そして光武帝はまた北の燕、代に親征した。
寇恂は書簡を属県に廻して兵を講じ射術をならわせ、淇園の竹を伐って百万余の矢をつくり、二千匹の馬を養い、四百万斛の租税を収め、転じて軍に給した。

朱鮪は光武帝が北に行き河内が孤立していると聞き、討難将軍の蘇茂と副将の賈彊に三万余の兵を率いさせ、鞏河を渡って温を攻めさせた。
檄書が至ると、寇恂はすぐに軍を整え馳せ出、並びに属県に布告して兵を発し温の下で集合させた。
軍吏は皆諫めて言った。
「今、洛陽の兵は河を渡り前後は絶えておりませんので、兵が集合し終わってから出るべきです」
寇恂は言った。
「温は郡の藩蔽であり、温を失えば郡を守ることは出来ない」
遂に馳せて赴いた。
旦日に合戦し、偏将軍の馮異は救援軍を遣わし及び諸県の兵もやってきて、士馬は四集し、幡旗は野を蔽った。
寇恂は士卒に城に乗って鼓噪させ、大いにさけんで言わせた「劉公の兵がやってきたぞ」と。
蘇茂の軍はこれを聞いて陣は動揺し、そのため寇恂は奔り撃ち、大破し、追撃して洛陽に至り、遂に賈彊を斬った。
蘇茂の兵は自ら河へ身を投じ死んだ者が数千、万余人が生獲りとなった。
寇恂は馮異とともに河を渡って帰還した。
これより洛陽は震え恐れ、城門は昼も閉ざした。
この時光武帝は朱鮪が河内を破ったと伝え聞いたが、しばらくして寇恂の檄が至り、大いに喜んで言った。
「私は寇子翼が任せるに足る人物だと知っていたのさ」
諸々の将軍は賀を献じ、尊号をたてまつり、ここにおいて即位した。

時に軍食が欠乏し切迫していた。
寇恂は輦車驪駕をつかい転輸して、前後を絶やす事が無かった。
尚書は升斗で穀物を百官に支給した。
帝はしばしば策書で労問した。
寇恂と同門であった茂陵の董崇は寇恂に説いて言った。
「帝が新たに即位したが、四方は未だ定まっていない。しかしながら君侯はこの時を大郡に拠り、内では人心を得て、外では蘇茂を破り、威は隣敵に震い、功名はあらわれ聞こえている。これでは讒人の目を側め陥れらかねない。昔、蕭何は關中を守って鮑生の言葉で悟り、そして高祖は悦んだ。今、君がひきいているのは皆宗族昆弟だ。すなわち前人を鑑戒とすべきではないだろうか」
寇恂はその言葉にその通りだと思い、疾と称して仕事を視なかった。
帝はまさに洛陽を攻めようとし、先ず河内に至ると、寇恂は従軍することを求めた。
帝は言った。
「河内からまだ離れてはならない」
しばしば固く請うたが、聴許されなかった。
そこで兄の子の寇張、姉の子の谷崇を遣わして突騎を率いさせ、軍鋒となることを願った。
帝はこれを善しとして、皆を偏将軍とした。

建武二年、寇恂は上書した者が拷問をなしたことに連座して罷免された。
この時、潁川の人で厳終、趙敦は万余の衆を集め、密の人の賈期とともに兵を連ねて寇略をなした。
寇恂は罷免されてから数月で、また潁川太守を拝命し破姦将軍の侯進とともにこれを撃った。
数月で賈期の首を斬り、郡中を悉く平定した。
寇恂を雍奴侯に封じ、邑は万戸であった。

執金吾の賈復は汝南にいた。
その部将が潁川で殺人を犯したので、寇恂は捕得して獄に繋いだ。
時はまだ草創であったので、軍営で法を犯したものはおおむね多くはゆるされていたが、寇恂はこれを市で刑戮した。
賈復はこれを恥とし、還って潁川を過ぎ、左右に言った。
「私は寇恂と並んで将帥に列したのに、今その陥れられる所となった。大丈夫がどうして侵怨を懐いてこれを決しないものがあろうか。今、寇恂に会えば、必ず我が手で斬り殺してやる」
寇恂はその謀を知り、ともに会うことを欲しなかった。
谷崇は言った。
「私は将です。剣を帯びて側に侍ることができます。にわかに変があれば相手に当たる事ができます」
「そうではない。昔、藺相如は秦王すら畏れなかったのに、廉頗に屈した理由は、国のためであった。区区たる趙にすらなおこのような義が有るのだ。私がどうしてこのことを忘れるだろうか」
そして属県に命じて飲食物を盛んにして、酒醪を儲け、執金吾の軍が郡内に入ると、一人ごとに皆二人分の膳を兼ねさせた。
寇恂は出て道で迎え、疾と称して還った。
賈復は兵をととのえてこれを追おうとしたが、吏士は皆酔っており、遂に過ぎ去った。
寇恂は谷崇を遣わして現状を報告させ、すると帝は寇恂を徴した。
寇恂がやってきて引見されると、すでに賈復が座にいた。
起って互いに避けようとした。
帝は言った。
「天下は未だ定まらないのに、両虎がどうして私闘することが出来ようか。今日、朕は二人に和解してもらいたい」
ここにおいて並んで座して歓をつくし、遂に事を共にして一緒に出て、友の交わりを結んで去った。

寇恂は潁川に帰った。
三年、使者を遣わして現地で汝南太守を拝命した。
また、驃騎将軍の杜茂に兵を率いさせ寇恂をたすけて盗賊を討伐させた。
盗賊はなりをひそめ、郡内は無事であった。
寇恂はもとから学問を好み、そのため郷校を立て、生徒を教え、左氏春秋をよくおさめた者には自ら学を受けた。
七年、朱浮に代わって執金吾となった。
翌年、車駕に従って隗囂を撃ち、このため潁川の盗賊が群起した。
帝は軍を引いて還り、寇恂に言った。
「潁川は京師に迫近しているので、この時をもって平定せねばならない。考えに考えたが、独り卿だけが平定することが出来るだろう。九卿から転出することになるが、憂国のことであるから問題はない」
寇恂はこたえて言った。
「潁川は剽軽で、陛下が遠く阻険をこえて、隴、蜀に事があると聞き、狂狡がその隙に乗じて相い詿誤しただけです。もし乗輿が南へ向かったと聞けば、賊はおののき恐れ死に帰す事でしょう。願わくば私が鋭を執って前駆させていただきとうございます」
即日、車駕は南征した。
寇恂は従って潁川に至り、盗賊は悉く降服したが、ついに郡太守を拝命しなかった。
百姓は道を遮って言った。
「願わくば陛下から復た寇君を一年お借りしたく」
そのため寇恂を長社に留め、吏人を鎮撫し、余降を受納させた。

初め、隗囂の将である安定の高峻は兵万人を擁して高平の第一に拠っていた。
帝は待詔の馬援を使い高峻を招き降服させ、これにより河西の道は開けた。
中郎将の来歙は制を受けて高峻を通路将軍として、關内侯に封じた。
後に大司馬呉漢に属して共に隗囂を冀で包囲したが、呉漢の軍が撤退するにおよび、高峻は逃亡して故の陣営に帰り、また隗囂を助けて隴阺で拒んだ。
隗囂が死ぬと高峻は高兵に拠り、誅殺を畏れて堅守した。
建威大将軍耿弇は太中大夫の竇士、武陵太守の梁統等を率いてこれを包囲したが、一年経っても抜けなかった。
十年、帝は關に入り、これのために親征しようとした。
寇恂はこの時、駕に従っていて諫めて言った。
「長安は道半ばで対処するのに近く便利であり、安定、隴西は必ず懼れ震え上がるでしょう。これは一箇所に落ち着いて四方を制すべきです。今、士馬は疲れ倦んでいるのに、険阻の地を踏もうというのは万乗の固ではありません。前年の潁川のことを戒めとすべきなのです」
帝は従わなかった。
進軍して汧にまできたが高峻は猶お下らなかった。
帝は議して使者を遣わしこれを降服させようとして寇恂に言った。
「卿は前に私の挙を止めた。今私のために行ってくれ。もし高峻が即座に降伏しなければ、耿弇等五営の兵を率いてこれを撃て」
寇恂が璽書を奉じて第一に至ると、高峻は軍師の皇甫文を遣わして出て謁見させたが、辞礼は屈しなかった。
寇恂は怒り、皇甫文を誅殺しようとした。
諸将は諫めて言った。
「高峻は精兵万人、強弩は多く西方の隴道を遮って連年下らない。今、これを降服させようとしているのにもかかわらずその使者を戮すのは、すべて無に帰しかねない」
寇恂は応じず遂に皇甫文を斬った。
その副使を遣わして還って高峻に告げさせた。
「軍師が無礼であったのですでに戮した。降服したいと思うのであれば急ぎ降服せよ。したくなければ固く守れ」
高峻は惶恐し、即日城門を開いて降服した。
諸将は皆な賀しそれに因って言った。
「敢えて問うが、その使者を殺してその城を降服させたのはどういうことなのか」
寇恂は言った。
「皇甫文は高峻の腹心でその謀を取る所の者だ。今来て辞意は屈せず、降服しようという心は全く無い。これを全うさせれば皇甫文はその謀を得ることになる。これを殺せば高峻は胆を亡うだろう。だから降服してきたのだよ」
諸将は皆な言った。
「我等の及ぶところではない」
遂に高峻を送り届け洛陽に帰還した。

寇恂は経に明るく行いは修まり、名は朝廷で重きをなし、得た秩奉は厚く朋友、胡人及び従っていた吏士に施した。
いつも言っていた。
「私は士大夫の働きによってこれを得たのだ。独りでこれを受けることが出来ようか」
時の人はその長者であるところに帰服し、宰相の器であるとされた。

十二年、亡くなり、威侯と謚された。
子の寇損が後を嗣いだ。
寇恂の同母弟及び兄の子、姉の子で軍功を立て列侯に封じられた者は凡そ八人であったが、一代限りで位を後世に伝えた者はいなかった。

初めともに謀った閔業という者は、寇恂がしばしば帝のためにその忠を上申したので關内侯の爵位を賜り、官は遼西太守に至った。

十三年、また寇損の庶兄である寇壽を封じて洨侯とした。
後に寇損を扶柳侯に徙し封じた。
寇損が亡くなり、子の寇釐が後を嗣ぎ、商郷侯に徙し封じられた。
寇釐が亡くなり、子の寇襲が後を嗣いだ。

寇恂の女孫は大将軍ケ騭の夫人となり、これにより寇氏は志を永初年間に得た。

寇恂の曾孫が寇榮である。

論に言う。
左伝にこうある、「喜怒、類を以ってする者は鮮なし(喜ぶべきなのに喜び、怒るべきなのに怒るものはすくない)」と。
喜んでおもねらず、怒って難お思う者はただ君子だけであろう。
子曰く、伯夷、叔斉は旧悪を記憶に留める事をせず、怨みをかうことはまれであった。
寇公においてこれを見れた。