岑彭列伝


岑彭あざなは君然、南陽棘陽の人である。
王莽の時、棘陽県の長を守った。
漢の兵が起こり、棘陽を攻めて抜くと、岑彭は親族を率いて前隊大夫である甄阜のもとへ奔った。
甄阜は岑彭が固守できなかったことに怒り、岑彭の母と妻をとらえ、功を立てさせ自らつぐなわせた。
岑彭は賓客を率いて戦闘し甚だつとめた。
甄阜が死ぬと、岑彭は負傷し、のがれて宛に帰属し甄阜の副官だった嚴説とともに城を守った。
漢の兵が宛を攻めること数ヶ月、城内では食料が尽きて人が互いを食べる有様であった。
岑彭は嚴説とともに城を挙げて降服した。

諸将は彼を誅しようとしたが、大司徒の伯升は言った。
「岑彭は郡の大吏で、心を執り堅守するのは、その節義である。今大事を挙げるのに、まさに義士を表すべきである。これを封じて他をはげます以外にあるまい」
更始帝は岑彭を封じて帰徳侯とし、伯升に属させた。
伯升が殺害されると、岑彭はまた大司馬朱鮪の校尉となり、朱鮪に従って王莽の揚州牧である李聖を攻撃して殺し、淮陽城を平定した。
朱鮪は岑彭を推薦して淮陽都尉とした。
更始帝は張卬を威王として立て將軍の徭偉とともに淮陽に鎮撫させた。
徭偉が反し、攻撃して張卬を敗走させた。
岑彭は兵をひきいて徭偉を攻め、これを破った。
潁川太守に遷った。

たまたま舂陵の劉茂が兵を起こし、潁川を侵略して下したので、岑彭は赴任する事が出来なかった。
このため麾下の数百人とともに同郷の河内太守である韓歆に従った。
光武帝が河内をめぐると、韓歆は謀議して城を守ろうと欲し、岑彭が止めたが聴かなかった。
すでに光武帝が懐に至り、韓歆は急迫して迎え降服した。
光武帝はその謀を知って大いに怒り、韓歆をとらえて鼓の下に置き、斬ろうとした。
岑彭は召見し、進んで説いて言った。
「今、赤眉は關中に入って、更始帝は危殆し、権臣はほしいままにふるまい、いつわって詔制を稱し、道路は阻まれ塞がり、四方は蜂起し、戝雄は競い逐い、百姓が帰服するところはありません。ひそかに聞きますと大王は河北を平定し、王業を開き、これは誠に皇天が漢をたすけ、士人の福であります。私は幸いにも司徒公(劉伯升)に命を救われましたが、未だその徳に報いていないのに、たちまち災禍に遭われ、長い事心に残っております。今、また遇うことがあればあれば、願わくば身を出して自らつくしましょう」
光武帝は深くこれを受け入れた。
これに因って岑彭は言った。
「韓歆は南陽の大人ですのでもちいられるべきです」
このため韓歆はゆるされ、ケ禹の軍師となった。

更始帝の将軍である呂植が兵を率い淇園に駐屯した。
岑彭は彼を説得して降服させた。
ここにおいて岑彭を刺姦大将軍に任命し衆営を督察させ、いつも持っていた節を授け、従軍して河北を平定した。
光武帝が即位すると、岑彭は廷尉を拝命し、帰徳侯はもとのままとし、大将軍の仕事を兼任した。
大司馬呉漢、大司空王梁、建義大将軍朱祜、右将軍萬脩、執金吾賈復、驍騎将軍劉植、揚化将軍堅鐔、積射将軍侯進、偏将軍馮異、祭遵、王覇等とともに洛陽を包囲する事数月。
朱鮪等は堅守して肯えて下らなかった。
帝は岑彭がかつて朱鮪の校尉であったことから往かせて説得させた。
朱鮪は城上におり、岑彭は城下にいて、互いに労苦して歓語する様子はいつもとかわらなかった。
岑彭は言った。
「私はさきに鞭を執って侍従したことにより、薦挙抜擢を蒙り、いつも恩に報いる事があるだろうと思っております。今、赤眉はすでに長安を得、更始帝は三王に叛かれるところとなりました。皇帝(光武帝)は命を受け燕、趙を平定し、幽、冀の地を尽く有し、百姓は帰心し、賢峻は雲の如く集まり、自ら大兵を率いて来て洛陽を攻めております。天下の事はゆくゆくは定まりましょう。公は城を嬰して固守しておりますが、はたして何を待っておられるのでしょうや」
「大司徒が害された時、私はその謀にあずかり、また更始帝に蕭王(光武帝)を遣わして北伐させるようなことはないようにと諫めた。誠に自ら罪の深さを知っているのだ」
岑彭は還り、つぶさに帝に報告した。
帝は言った。
「大事を建てる者は小さな怨みを忌むことはしない。朱鮪がもし降服するなら、官爵を保証しよう。どうして誅罰などしようか。河水はこれに在り、私は言を食まない」
岑彭はまた往き朱鮪に告げた。
朱鮪は城上から縄を垂らして言った。
「本当に信用できるならこれに乗って上れ」
岑彭は縄に向かって上ろうとした。
朱鮪はその誠実な姿を見て、降伏する事にした。
五日後、朱鮪は軽騎を率い岑彭のもとへ詣った。
顧みて諸諸の部将に命じて言った。
「堅守して私を待て。私がもし還なければ、諸君はただちに大兵を率い轘轅を上り、郾王に帰属せよ」
そして面縛して岑彭とともに河陽に詣った。
帝はただちにその縄を解いて之を召見し 、また岑彭に夜い朱鮪を送って城に帰らせた。
翌朝、その衆を尽くして降服した。
朱鮪を平狄将軍とし、扶溝侯に封じた。
朱鮪は淮陽の人、後に少府となり、封を累代に伝えた。

建武二年、岑彭に荊州を撃たせ、犨、葉等十余城を下した。
この時、南方ははなはだ乱れた。
南郡の人の秦豐は黎丘に拠り、自ら楚の黎王と称し、十二県を有し、董訢は堵郷で起ち、許邯は杏で起ち、また更始帝の諸将は各々兵を擁して南陽の諸城に拠っていた。
帝は呉漢を遣わしこれを征伐させたが、呉漢軍の過ぎたところは侵暴することが多かった。
時に破虜将軍のケ奉は新野に謁帰し、呉漢がその郷里を掠めたことに怒り、遂に反して撃って呉漢の軍を破ってその輜重を得、淯陽に屯拠し、諸賊と合従した。
秋、岑彭は杏を破って許邯を降し、征南大将軍に遷った。
また、朱祜、賈復及び建威大将軍の耿弇、漢忠将軍の王常、武威将軍の郭守、越騎将軍の劉宏、偏将軍の劉嘉、耿植等を遣わして岑彭と力を合わせてケ奉を討伐させた。
先ず堵郷を撃ったが、ケ奉は万余人を率いて董訢を救った。
董訢、岑彭は皆な南陽の精兵で岑彭等がこれを攻めたが連月勝てなかった。

三年夏、帝は自ら将として南征した。
葉に至ると董訢の別将は数千人を率いて道を遮り、車騎は進むことができなかった。
岑彭は奔走して撃ってこれを大破した。
帝が堵陽へ至ると、ケ奉は夜に逃れて淯陽に帰り、董訢は降服した。
岑彭はまた耿弇、賈復及び、積弩将軍の傅俊、騎都尉の臧宮等と従ってケ奉を小長安に追撃した。
帝は諸将を率いて自ら戦いこれを大破した。
ケ奉は迫急にして降服した。
帝はケ奉が旧臣であることを憐み、かつ離反したのは呉漢が原因であるから、これを全宥したいと思った。
岑彭は耿弇とともに諫めて言った。
「ケ奉は御恩に背いて叛逆し、師(部隊)を数年も野に暴し、賈復は傷痍し、朱祜はとらえられました。陛下が既に至ったというのに、善に悔いることを知らず、自ら行陣に在って、兵が敗れてから降伏しました。もしケ奉を誅しなければ、悪を懲らしめることは出来ません」
ここにおいてケ奉を斬った。
ケ奉という者は西華侯ケ晨の兄の子である。

車駕は引きて還った。
岑彭に傅俊、臧宮、劉宏等三万余人を率いさせて、南の秦豐を撃ち、黄郵を抜いたが、秦豐は大将の蔡宏とともに岑彭等をケで拒み、数ヶ月進むことが出来なかった。
帝は怪しみ岑彭を讓めた。
岑彭は懼れ、ここにおいて夜に兵馬をととのえ、軍中に明朝、西の山都を攻撃すると申令した。
そして捕虜の警戒を緩くして、逃亡させ帰らして秦豐に告げるようにした。
秦豐はその軍を悉く西で秦豐を邀撃しようとした。
岑彭は兵を潜めて沔水を渡り、阿頭山でその将である張楊を撃ってこれを大破した。
川谷の間から木を伐り道を開き、直ちに黎丘を襲い、諸将の屯兵を撃破した。
秦豐はそれを聞いて大いに驚き、馳せ帰ってこれを救った。
岑彭は諸将とともに東の山に依って営塁を築いた。
秦豐は蔡宏とともに夜に岑彭を攻めたが、岑彭はあらかじめこの備えをしており、兵を出してこれをむかえ撃ち、秦豐を敗走し、追撃して蔡宏を斬った。
あらためて岑彭を封じて舞陰侯となした。

秦豐の相である趙京は宜城を挙げて降服した。
成漢将軍を拝命し、岑彭とともに秦豐を黎丘で包囲した。
時に田戎は夷陵で衆を擁していた。
秦豐が包囲されたのを聞き、大兵がやってくるだろうと懼れ、降服しようとした。
しかし、妻の兄である辛臣は田戎を諫めて言った。
「今、四方の豪傑は各々郡国に拠り、洛陽の地は掌のようなものだ。兵を按じてその変事をうかがうのが良い」
田戎は言った。
「秦王の強さをもってしてもなお征南に包囲されるところになりました。あにいわんや吾をや。降服することは決定しました」
四年春、田戎は辛臣を留めて夷陵を守らせ、自ら兵を率いて長江に沿って沔水をさかのぼって黎丘にとどまり、期日をさだめて降伏しようとした。
しかし、辛臣は田戎の珍宝を盗み、間道から先んじて岑彭に降伏し、書簡で田戎を招いた。
田戎は必ず己を売るだろうと疑い、遂に敢えて降服せず、かえって秦豐と合流した。
岑彭は兵を出して田戎を攻め、数ヶ月でこれを大破した。
その大将の伍公は岑彭のもとにいたって降り、田戎はのがれて夷陵に帰った。
帝は黎丘に行幸して軍を労い、岑彭の吏士で功績のある者百余人を封じた。
岑彭が秦豐を攻めること三年、斬首九万余級、秦豐にのこった兵はわずか千人で、又た城中の食料は尽きようとしていた。
帝は秦豐が転た弱いため、朱祜を岑彭に代えてこれを守らせ、岑彭は傅俊とともに南の田戎を撃たせた。
これを大破して遂に夷陵を抜き、追って秭歸に至った。
田戎は数十騎とともに蜀に亡命した。
その妻子、士衆数万人を尽くとらえた。

岑彭はまさに蜀漢を伐とうとしたが、川をはさんで穀物は少なく、流れは険しく漕運が難しいので、威虜将軍の馮駿を留めて江州に、都尉の田鴻を夷陵に、領軍の李玄を夷道に、それぞれ軍せしめ、自らは兵を引いて還り津郷に駐屯して荊州の要会に当り、諸々の蛮夷を「降伏した者はその君長を封じよう」と説諭した。
初め岑彭は交趾牧のケ讓と厚く仲が良かったので、ケ讓に書を与えて国家の威徳を陳べ、又た偏将軍の屈充を遣わして檄を江南に移して詔命を班行させた。
ここにおいてケ讓は江夏太守の侯登、武陵太守の王堂、、長沙の相である韓福、桂陽太守の張隆、零陵太守の田翕、蒼梧太守の杜穆、交趾太守の錫光等とともに互いに使者を遣わして貢献し、悉く列侯に封じた。
あるいは子を遣わして兵を率いさせて岑彭の伐征を助けさせた。
ここにおいて江南の珍品は始めて流通した。

六年冬、岑彭を徴して京師に詣らせ、しばしば召され讌見し、厚く賞賜を加えられた。
復た南方の津郷に帰還した。
詔があり実家に寄って墓参りをさせ、大長秋は朔(一日)望(十五日)に太夫人(列侯の母)の起居を見舞った。

八年、岑彭は兵を引いて車駕に従って天水を破り、呉漢とともに西城において隗囂を包囲した。
この時、公孫述の将である李育は兵を率い隗囂を救い、上邽を守った。
帝は蓋延と耿弇を留めてこれを包囲させ、車駕は東に帰った。
岑彭に書を勅して言った。
「両城がもし下れば兵を率いて南方の蜀の虜を撃つべし。人は足るを知らないことに苦しむ。既に隴を平定し復た蜀を望む。一たび兵を発するたびに頭鬚はために白し」
岑彭は遂に谷の水を壅ぎ西城に注いだが、城が数丈も水没していないのに、隗囂の将である行巡、周宗が蜀の援兵を率いて到来、隗囂は城を出て冀へ還ることが出来た。
漢軍は食料が尽きたので、輜重を焼いて兵を引き隴を下り、蓋延と耿弇も相い随って退いた。
隗囂は兵を出して諸営を尾撃したが、岑彭は殿として後拒を行ったために、諸将は部隊を全うして東に帰ることが出来た。
岑彭は津郷に帰還した。

九年、公孫述はその将である任満、田戎、程汎を遣わし数万人を率いさせ枋箄に乗せ江関を下らせ、馮駿及び田鴻、李玄等を撃破した。
遂に夷道、夷陵を抜き荊門虎牙に拠った。
江水を横切って浮橋、闘楼を起て欑柱を立て水道を絶ち、営塁を山上に結び漢の兵を拒いだ。
岑彭はしばしばこれを攻めたが利あらず。
ここにおいて直進楼船、冒突露橈数千艘を装った。

十一年春、岑彭は呉漢及び誅虜将軍劉隆、輔威将軍臧宮 驍騎将軍劉歆とともに南陽、武陵、南郡の兵を発し、又た桂陽、零陵、長沙の物資輸送のための船頭を発し、凡そ六万余人、騎馬五千匹、皆な荊門で会した。
呉漢は三郡の船頭達は多くの糧穀を消費するから罷めさせようとした。
岑彭は蜀の兵が盛んなので罷めさせてはならないと思い、上書して現状を報告した。
帝は岑彭に返事して言った。
「大司馬(呉漢)は歩兵と騎兵を扱うことに長けているが、水戦に通暁してるわけではない。荊門のことは一に征南公(岑彭)のよって重しとなすだけだ」
岑彭は軍中に浮橋を攻める者を募り、先登した者を上賞とすると令した。
ここにおいて偏将軍魯奇が募集に応じ前進したが、時に天風狂い、魯奇の船は逆流して上り、すぐに浮橋を衝いたが、欑柱が引っかかり退去できなくなり、魯奇等は勢いに乗じ決死の奮戦をし、炬火を飛ばして浮橋を焼き、風は怒り火は盛んで、橋楼は焼き崩れた。
岑彭は軍を悉く発し風にしたがって並んで進み、向かう所敵なし。
蜀兵は大いに乱れ、溺死者は数千人におよんだ。
任満を斬り、程汎を生け捕り、田戎はのがれて江州に籠もった。
岑彭は劉隆を南郡太守とし、自ら臧宮劉歆を率い長駆して江関に入り、軍中に令して略奪行為を禁じた。
岑彭の軍が過ぎたところでは、百姓は牛酒を捧げて迎えた。
岑彭は諸々の耆老を見て言った。
「大漢は巴蜀が長いこと虜に使役されている事に哀愍し、そのために軍を興し遠くを征伐し、罪有るを討って人のために害を除くのである」
そしてその牛酒を受けなかった。
百章は皆な大いに喜悦し、争って門を開いて降った。
岑彭に詔して益州牧として守らせ、降服させた郡の太守を兼務させた。

岑彭は、江州に至った。
田戎は食料が多くにわかには抜きがたいので、馮駿を留めて之を守らせ、自ら兵を引いて士気が盛んなのに乗じ直ちに墊江を目指し、平曲を攻め破り、その米数十万石を収めた。
公孫述は将である延岑、呂鮪、王元およびその弟の王恢を廣漢、および資中に派遣して拒がせ、又た将の侯丹を遣わして二万余を率いさせ黄石を拒がせた。
このため岑彭は疑兵をもうけ、護軍の楊翕と臧宮に延岑等を拒がせ、自ら兵を分け長江に浮かんで下り江州へ帰還し、都江をさかのぼり侯丹を襲撃し、これを大破した。
晨夜に行軍し倍の行程を進むこと二千余里、ただちに武陽を抜いた。
精鋭の騎兵に廣都に馳せさせ、成都から数十里、勢いは風雨の如く、至る所では皆な奔り散じた。
初め公孫述は漢兵は平曲に在ると聞き、そのため大兵を遣わしてこれを迎え撃たせようとした。
岑彭が武陽に至ると、延岑の郡の後ろに出たので蜀の地は震えおどろいた。
公孫述は大いに驚き、杖で地面を撃って言った。
「これはいったいどういう神(技)だ」

岑彭が屯営していた土地は彭亡と呼ばれていた。
これを聞いて(岑彭が亡ぶ地という意味に読めるので)、憎み、別のところへ移ろうと欲した。
日が暮れたので、移らないでいると、蜀の刺客が逃亡奴隷だと偽って降伏し、夜に岑彭を刺殺した。

岑彭は先駆けて荊門を破り、武陽へ長駆し、軍を統率しては規律正しく、ほんのわずかな掠奪を犯すことも無かった。
邛穀王の任貴は岑彭の威信を聞き、遠く数千里から使者を遣わし降服した。
既に岑彭が薨じており、帝は任貴が献上したものを岑彭の妻子に賜い、壮侯と謚した。
蜀の人はこれを憐み、岑彭のために武陽に廟を立て、四季折々に祀った。

子の岑遵が後を嗣ぎ、細陽侯に徙封された。
十三年、帝は岑彭の功績を思い、復た岑遵の弟の岑淮を封じて穀陽侯とした。
岑遵は永平年間に屯騎校尉となった。
岑遵が亡くなり、子の岑伉が後を嗣いだ。
岑伉が亡くなり、子の岑鳏が後を嗣いだが、元初三年、事に連座して国を失った。
建光元年、安帝は復た岑鳏を細陽侯に封じ、順帝の時に光祿勲となった。

岑鳏が亡くなり、子の岑熙が後を嗣ぎ安帝の妹である涅陽長公主を娶った。
若くして侍中、虎賁中郎将となり、朝廷の多くはその能力を称賛した。
魏郡太守に遷ると、隠逸の士を招聘して政事に参与させ、無為にして教化をなした。
事を視ること二年、民衆はこれを歌って言った。
「我に枳棘が有れば、岑君がこれを伐る。我に蟊賊が有れば、岑君がこれを遏ぐ。狗が吠えても驚かず、足下に氂が生じる。哺を含み腹を鼓き、どうして凶災を知るだろうか。我は喜び我は生き、独りこの時にあたった。美いかな岑君、於戲茲をよしとする」
岑熙が亡くなり、子の岑福が後を嗣ぎ、黄門侍郎となった。