臧宮列伝


臧宮あざなは君翁、潁川郟の人である。
若くして県の亭長、游徼となり、後に賓客を率い下江の兵の中に入り校尉となり、光武帝に従って征戦し、諸将の多くはその勇を称賛した。
光武帝は臧宮の勤みつとめて言葉が少ないのを察し、これを甚だ親しんで納れた。
河北に至ると偏将軍を拝命した。
従軍して郡賊を破り、しばしば敵陣を陥れ、敵を退けた。

光武帝が即位すると、侍中、騎都尉となった。
建武二年、成安侯に報じられた。
明年、突騎を率い征虜将軍祭遵とともに陽、酈で更始帝の将である左防、韋顏を撃ち、これを悉く降した。
三年、兵を率いて江夏をめぐり、代郷、鍾武、竹里を撃ち皆な下した。
帝は太中大夫に節を持たせ臧宮を輔威将軍とした。
七年、あらためて期思侯に封じられた。
梁郡、済陰を撃ち、皆なこれを平定した。

十一年、兵を率いて中盧に至り、駱越に駐屯した。
この時、公孫述の将である田戎、任満は征南大将軍岑彭と荊門で攻めあい、戦っていたが岑彭等は不利であった。
越の人々はそむいて蜀に従おうと謀った。
臧宮は兵が少なく、力で制圧する事ができなかった。
たまたま属県の物資輸送車が数百台が到着した。
臧宮は夜に鋸で城門のしきいを断たせ、車の音をさせながら朝まで出入りをさせた。
様子をうかがっていた越人は車の音が絶えず聞こえ、しかも門のしきいが断たれていることから、漢の大軍はやってきたと次々に報告した。
その渠帥は牛と酒を奉じて軍営に慰問にやってきた。
臧宮は兵をつらねて大いに会見し、牛を撃ち殺し酒を釃して、饗し賜いこれを慰納した。
越人はこのために安んじることができた。

臧宮は岑彭等と荊門を破り、別に垂鵲山に至り、道を通じて秭帰に出て、江州に至った。
岑彭は巴郡を下し、臧宮に降卒五万を率いさせ涪水から平曲に溯らせた。
公孫述の将である延岑は精兵を沈水においていた。
この時、臧宮は兵は多いが食料が少なく、輸送も来なかった。
このため降服した者達は逃げ散じるか叛こうとしており、近くの郡邑は兵を集めて形勢を傍観していた。
臧宮は撤退しようと思ったが反乱が起こる事を恐れた。
たまたま帝は謁者に兵を率いて岑彭のところへ派遣しようとしており、馬が七百匹あった。
臧宮は詔であると偽り全て自分のものにし、
晨夜に兵を進め、多くの旗幟を張りめぐらせ、山に登って鼓噪し、歩兵を右に、騎兵を左に配置し、船を挟んで引き、さけび声は山谷をどよもした。
延岑は不意に漢の兵がやってきたと思い、山に登ってこれを望んで大いに震え恐れた。
臧宮はこのためにほしいままに攻撃し、これを大破した。
斬首溺死者は万余で、水がこのために濁流となってしまった。
延岑は成都へ奔り、その衆は悉く降服した。
尽くその兵馬珍宝を獲た。
これにより勝ちに乗じて逃げる者を追い、降服する者は十万を数えた。

軍が平陽郷に至ると、蜀の王元は衆をあげて降服した。
進軍して綿竹を抜き、涪城を破り、公孫述の弟の公孫恢を斬り、攻めて繁、郫を抜いた。
前後して節を五、印綬を千八百収得した。
この時、大司馬の呉漢もまた勝ちに乗じて営塁を進めて成都に逼った。
臧宮はしきりに大城を屠り、兵馬旌旗は甚だ盛んで、すなわち兵を連ね小雒郭門に入り、成都城下をめぐり、呉漢の営塁に至り、飲酒して盛大に宴会を催した。
呉漢はこれをみて甚だ歓び、臧宮に言った。
「将軍はさきに虜の城下をめぐり、威霊を震揚したことは、風がめぐり電が照らすようであった。しかしながら追詰められた敵は量り難いから、自身の営塁に帰る時は、出来れば別の道を通られよ」
臧宮は従わず、同じ道を通って帰ったが、賊もまた敢えてこれに近づこうとしなかった。
軍を咸門に進め、呉漢とともに公孫述を滅ぼした。

帝は蜀が新たに定まったことにより、臧宮を廣漢太守とした。
十三年、邑を加増しあらためて酇侯に封じられた。
十五年、徴されて京師に還り、列侯として朝請を奉じ、定めて朗陵侯に封じられた。
十八年、太中大夫を拝命した。

十九年、妖巫の維の弟子の単臣、傅鎮等は、また妖言をなして相い聚り、原武城に入り、吏人おびやかして将軍を自称した。
ここに於いて臧宮を遣わして北軍及び黎陽営の数千人を率いてこれを包囲させた。
賊は穀食多く、しばしば攻めたが下せず、士卒は死傷した。
帝は公卿、諸侯王を召して方策を問うと、皆言った。
「賊を捕らえた時の褒賞を重くすべきです」
時に顕宗は東海王であり、独り答えて言った。
「妖巫が相いおびやかしておりますが、勢いとして長い事立つことはありえず、その中に必ず悔いて逃れたいという者があるでしょう。ただ外の包囲が厳しいので逃れる事ができないだけです。囲みを少しといて緩くし、逃亡させてやればよろしい。逃亡すれば一亭長でもとらえることが出来ます」
帝はその通りだとし、即ち臧宮に勅して囲みをとき、を緩くさせた。
賊衆は分散し、遂に単臣、傅鎮等を斬った。
臧宮は帰還すると、城門校尉に遷り、また左中郎将に転出した。
武谿の賊を撃って江陵に至り、これを降した。

臧宮は謹厳誠実にして質撲であることから、常に任用された。
後に匈奴に飢饉と疫病があり、おのずから相い分かれ争った。
帝は臧宮にこの事に関し問うと、臧宮は言った。
「願わくば五千騎で功績を立てたいと思います」
帝は笑って言った。
「常勝のひとは、ともに敵の対策を練ることは出来ないな。私自身もこのことを考えている」
二十七年、臧宮は即ち楊虚侯の馬武とともに上書して言った。
「匈奴は利を貪って禮も信もありません。窮すれば稽首し、平穏であれば侵盗し、緑辺はその毒痛を被り、仔k内はその侵犯を憂えます。虜は今や人畜は疫病で死に、旱魃と蝗害があって土地にあったものは尽きて、病み疲れており、その力は中国の一郡にすらあたりません。辺境に住む人々の命は、陛下が握っておられます。このような好機はまたとくることはなく、時は失い易いものです。どうして固く文徳を守って武事を堕してよいでしょうか。今、将に命じて塞に臨ませ、厚く褒賞をかけ、高句麗、烏桓、鮮卑に喻告してその左側を攻めさせ、河西の四郡、天水、隴西の羌胡を発してその右を撃たせましょう。このようにすれば、北虜は数年を過ぎずに滅びましょう。臣が恐れるのは、陛下は仁恩にして攻撃することを忍びず、謀臣は狐疑し、万世の石に刻まれるような功績を聖世に立てる事なくおわることです」
詔して報じて言った。
「『黄石公略』に曰く、柔能く剛を制し、弱能く強を制す。柔なる者は徳である。剛なる者は賊である。弱なる者は仁の助けである。強なる者は怨みのまとであると。だからこう言うのだ。有徳の君は楽しむところを以って人を楽しませ、無徳の君は楽しむところを以って身を楽しませる。人を楽しませる者はその楽しみは長く、身を楽しませる者は久しからずして亡ぶ。近くの事を捨てて遠くの事を謀る者は徒労に終わって功績は無く、遠くの事を捨てて近くの事を謀る者は逸にして終わる事になる。逸政には忠臣が多く、労政には乱人が多いと。またこうも言うのだ。土地を広めることに務める者は荒み、徳を広めることに務める者は強く、その有をたもつ者は安く、人の有を貪る者はそこなわれ、残滅の政は成ると雖も必ず敗れると。今、国に善政無く、災変やまず、百姓は驚き惶れ、人は自らやすんじることが出来ない。それなのにどうしてまた遠くの辺境のことをしようとするのか。孔子曰く、吾は恐る、季孫の憂いは顓臾に在らざることをと。且つ北狄は尚お強く、而して屯田し警備している。伝聞は恒に事実が欠けていることが多い。本当に天下の半分を挙げて大寇を滅するのは至願であないはずがない。いやしくもその時ではないのであるから、人を休ませるしかない」
これより諸将は敢えてまた兵事のを言う者はいなかった。

臧宮は永兵元年に亡くなり、謚して愍侯という。
子の臧信が後を嗣いだ。
臧信が亡くなり、子の臧震が後を嗣いだ。
臧震が亡くなり、子の臧松が後を嗣いだ。
元初四年、母と別居し、国を除かれた。
永寧元年、ケ太后は臧松の弟の臧由を紹封して朗陵侯とした。