諸葛豐列伝


諸葛豊あざなは少季、琅邪の人である。
経に明るかったので郡の文学となり、剛直な事で特に有名であった。
貢禹が御史大夫となると諸葛豊を属官にし、侍御史に推挙された。
元帝に抜擢され司隷校尉となり、検挙を避けることが無く、そのため京師このように語られた。
「久しぶりだな」
「諸葛に逢ってしまってね」
帝はこの節義を嘉し、諸葛豊に秩を加増し光禄大夫とした。

当時の侍中は許章で外戚として貴幸され、奢淫で法度を奉じず、賓客で事を犯すと、許章と互いに連なっていた。
諸葛豊は許章を弾劾するために取り調べ、このことを上奏しようとすると、たまたま許侍中が私用で外出したのに逢い、諸葛豊は車を駐め、節を挙げ許章に詔して「下りよ」と言いこれを収容しようとした。
許章は切迫し、車を馳せて去り、諸葛豊はこれを追った。
許侍中は宮門に入ることが出来たので、自ら帝に助けを求めた。
諸葛豊もまた上奏したが、ここにおいて諸葛豊は節を取り上げられた。
司隷校尉が節を持たなくなったのは諸葛豊からである。

諸葛豊は上書し謝罪した。
「臣豊は駑怯で、善を勧めるには文が不足し、邪を取締るのには武が不足ております。陛下は臣の能力を量らず、司隷校尉を拝命し、自ら何もなすことなく、さらに秩を臣に加え光禄大夫杜氏、官位は尊く責任は重く、臣が居る所ではありません。また歳をとり衰え暮れも迫り、いつも溝に填り、厚き徳に報いることなく、論議の士に私が輔佐できないことを誹らせ、長く素餐の名を得て死ぬ事を恐れております。ゆえにいつも一旦の命を捐てることを願い、時を待たず姦臣の首を断ち、都市に懸け、その罪を書に編み、悪の罪を四方に知らせ、その後ならば斧鉞で誅殺されようとも、臣は誠に甘んじてお受けいたしましょう。庶民にさえ、なお刎頚の交わりが有り、今、四海の大きさ、節に伏し死んだ臣は無く、ことごとくかりそめに取り入り容れられ、おもねり互いに利用し、私門の利益をおもい、国家の政を忘れ、邪穢濁溷の気が上りそれを天は感じ、ここにおいてしばしば災変が見られ、このため百姓は困ります。これは臣下の不忠といたすとろこであり、臣は誠にこれを恥じてやみません。およそ人情は安存をのぞまず危亡をにくまない者はおりませんが、忠臣、直言の士が患害を避けないのは、誠に君主のためであります。今、陛下は天を覆い地を戴き、物を容れないことは無く、尚書令堯をつかわし臣豐に書を賜って仰りました『それ司隷校尉という者は不法を挙げ、善を善とし悪を悪とし、これをうやうやしく得ることは出来ない。免ずる処は中和し、経術の意にしたがえ』と。恩深く徳厚きこと、臣豊頓首し甚だ幸いといたします。臣はひそかに憤懣にたえず、願わくば清宴を賜りたく、ただ陛下はいささかなりとい幸まれんことを」
帝は許さなかった。

この後進言してもますます用いられず、諸葛豊はまた上書して言った。
「臣聞く、伯奇は孝により親に棄てられ、子胥は忠により君主に誅され、隱公は慈により弟に殺され、叔武は弟で兄に殺されたと。この四子の行い、屈平(屈原)の才をもってしても、なお自ら顕すことが出来ず刑戮され、なんと観るに不足な事でしょうか。臣が身を殺して国を安んじ、蒙を誅すことで君を顕すのは、臣が誠に願うところです。独り恐れるのは補えないと言われ、邪な者に排除され、讒言する者の思うようになり、正直の道が塞がれ、忠臣の心をやぶり、智士が口をふさぐ、これが愚臣の懼れるところであります」

諸葛豊は春夏の間に人を治め繋いだので、位にある多くの人がその短所を言上した。
帝は諸葛豊を城門校尉に遷すと、諸葛豊は上書し光祿勳の周堪と光祿大夫の張猛を告発した。
帝は諸葛豊が直ではないとし、御史に詔を制し、「城門校尉の諸葛豊は前に光祿勳周堪と光祿大夫張猛と朝廷にいた時、周堪と張猛の美点を言いほめていた。諸葛豊は前に司隷校尉となり、四時に順ぜず、法度を修め、もっぱら苛暴をなし、虚威を獲ていたが、朕は吏に下げ渡す事を忍びず、城門校尉に遷した。それなのに諸事を反省せず、かえって怨み、周堪や張猛を報復するためにその罪を求め挙げ、根拠の無い事をしらべ告発し、験すことの難しい罪をあげ暴き、毀誉をおもうがままにし、前言を顧みず、不信の大きな者である。朕は諸葛豊が老齢で耄碌していることから、刑を加えることは忍びず、その官を免じて庶民とせよ」
諸葛豊は家でその生涯を終えた。