周昌列伝


周昌という者は沛の人である。
従兄は周苛で、秦の時にどちらも泗水の卒史だった。
高祖が沛で起こるに及び、泗水の守監を撃破し、ここにおいて周苛、周昌は卒史として沛公に従い、沛公は周昌を職志、周苛を客とした。
秦を破って關中に入った。
沛公は漢王に立てられ、周苛を御史大夫、周昌を中尉とした。

漢の三年、楚は滎陽で漢王を包囲し事態は急迫し、漢王は脱出し、滎陽城を周苛に守らせた。
楚は滎陽城を破り、周苛を将軍に欲したが、周苛は罵って言った。
「はやく漢王へ降服しろ、さもなくば、今にも漢の虜になるだろう」
項羽は怒り、周苛を煮殺した。
ここにおいて漢王は周昌を御史大夫に任命した。
常に従軍して項籍を撃破した。
六年、蕭何、曹参等とともに封ぜられ、汾陰侯となった。
周苛の子の周成は父の死により高景侯に封ぜられた。

周昌は生来、力が強く、敢えて直言し、蕭何、曹参等みな自らこれに卑下した。
周昌はかつて、暇を見計らい上奏しようと入ると、高祖が戚姫を擁いていたので、周昌は走り還った。
高祖は追いついてとらえ、周昌のうなじに馬乗りになって問うて言った。
「私はどんな主だ」
周昌は仰ぎ見て言った。
「陛下はすなわち、桀や紂のような主です」
ここにおいて帝は笑ったが、周昌をもっとも憚った。
高祖が太子を廃し、威姫の子の如意を太子に立てようと望むに及び、大臣達はかたく諫争したが意向を変えることが出来ず、留侯の策で帝も止めた。
この時周昌の諫争は強硬で、帝が意見を問うと、周昌はどもり、また怒りも盛んに言った。
「私は口では言う事が出来ません。しかしながら私は期期そのことがいけないと知っております。陛下は太子を廃することをお望みですが、私は期期詔を奉じることはいたしません」
帝は欣然と笑い、とりやめた。
呂后は東廂で耳をそばだて聴いており、周昌にあい、跪き感謝して言った。
「あなたがいなかったら太子は廃されていたでしょう」