滕公列伝


夏侯嬰は沛の人である。
沛の廄司禦で、使客を送るごとに、泗上亭を過ぎてから帰還し、高祖と語り、日が傾かない事はなかった。
やがて県吏として仮に登用され、高祖とは相愛の仲であった。
高祖が戯れて夏侯嬰を傷つけ、高祖を告発した人がいた。
当時高祖は亭長で、人を傷つけるのは人より罪が重く、それゆえ夏侯嬰を傷つけてはいないと告げ、夏侯嬰もその通りだと証言した。
時を移してまたこのことが覆され、夏侯嬰は高祖事件により一年余り投獄され、数百回も笞を受けたが、白状せず、そのため高祖は罪を免れた。

高祖がはじめて徒党を従え沛を攻めようとした時、夏侯嬰は 県令史として高祖のために使者となった。
ゆえに沛を一日で降すことが出来、高祖は沛公となり、七大夫の爵を賜い、夏侯嬰を太僕に任命し、常に御者とした。
胡陵攻撃に従軍し、夏侯嬰は蕭何とともに泗水の監である平を降服させ、平が胡陵とともに降伏したので、夏侯嬰に五大夫爵位を賜った。
碭の東で秦軍を撃つのに従い、濟陽を攻め、戸牖を降し、雍丘で李由の軍を破り、この時、兵車で疾風の如く攻め、これを破ったので、執帛の爵を賜った。
また、東阿、濮陽城下で章邯の軍を撃つのに従い、兵車で疾風の如く攻め、これを破ったので、執圭の爵を賜った。
さらに従軍して開封で趙賁の軍を、曲遇で楊熊軍を撃った。
夏侯嬰は従軍し、捕虜六十八人、降卒は八百五十人におよび、印一匱を得た。
また雒陽の東で秦軍を撃ち、兵車で疾風の如く攻め、封爵を賜い、転じて膝の令となった。
高祖の御者として従い南陽を攻めて平定し、藍田、芷陽で戦い、霸上に至った。
沛公は漢王となり、夏侯嬰は列侯の爵を賜り、昭平侯と号し、また太僕となって、したがって蜀漢に入った。

還って三秦を平定し、項籍を撃つのに従った。
彭城に至ったが、項羽は漢軍を大破した。
漢王は不利になり、馳せ去った。
この時、孝恵帝と魯元公主とあったのでこれを車に乗せた。
漢王は急ぎ、馬は疲労し、後方に追っ手がいたので、二人の子を蹴り棄てようとしたが、夏侯嬰はそのつど拾い上げ車に乗せ、顔を向かい合わせ抱きかかえながら車を馳せた。
漢王は怒り、十数回も夏侯嬰を斬ろうとしたが、逃げ切る事が出来、孝恵帝と魯元公主は豊へおくりとどけた。
漢王は滎陽に至ると、散兵を収め、再び振るい、夏侯嬰に食邑として沂陽を賜った。
項籍を下邑で撃ち、追撃して陳に至り、ついに楚を平定した。
魯に至り、食邑に茲氏を加増された。

漢王が帝位につくと、燕王臧荼が謀反をおこしたので、従軍して臧荼を撃った。
翌年、従って陳に至り、楚王韓信を捕らえた。
さらに汝陰を食邑に加えられ、符を剖き、代々断絶されないとされた。
代を撃つのに従軍し、武泉、雲中に至り、食邑千戸を加えられた。
晋陽の近くで韓信(韓王信)軍の胡騎(匈奴騎兵)を撃つのに従い、これを大いに破った。
北へ追撃し平城に至り、胡に包囲され、七日間連絡が取れなかった。
高帝は閼氏に使者を送って厚く贈り物すると、冒頓は包囲の一角を開けた。
高帝は馳せ出ようとしたが、夏侯嬰は固く徐行し、皆弩を持って弦を引き絞り外に向けさせ、遂に逃れる事が出来た。
夏侯嬰は食邑に細陽の千戸を加増された。
句注の北で胡騎を撃つのに従い、これを大いに破った。
平城の南で胡騎を撃ち、三度敵陣を陥れ、功績が多かったので、奪取した邑、五百戸を食邑に加えられた。
従軍して、陳豨、黥布の軍を撃ち、敵陣を陥れ敵を退け、千戸を加増され、食邑を汝陰の六千九百戸に定められ、以前の食邑は除かれた。

夏侯嬰は帝が初めて沛で起こってから、常に太僕として従い、それは高祖が崩御するまで変わらなかった。
恵帝にも太僕として仕えた。
恵帝と呂后は夏侯嬰が下邑間で孝恵帝と魯元公主を救ったことを徳として、皇宮の北門に近い第一の邸宅を賜り、恵帝に「私の近くにおれ」と言われ、特別に敬われた。
恵帝が崩御すると、太僕として呂后に仕えた。
呂后が崩御し、代王が来ると、夏侯嬰は太僕として東牟侯と宮中に入り清め、少帝を廃し、天子の車駕で代王邸に迎えに行き、大臣とともに文帝を立て、また太僕となった。
八年後に薨じ、文侯と謚された。
爵を伝えて曾孫の夏侯頗に至り、平陽公主を娶ったが、父の妾に姦通した罪に問われた。
そして自殺し、国を除かれた。

初め夏侯嬰は滕の令として御者をつとめ、故に滕公と号した。
曾孫の夏侯頗が公主を娶り、公主の母方の姓に随って、孫公主と号し、故に滕公の子孫は孫氏に氏をかえた。