仲連蹈海 范蠡泛湖


史記にいう。
魯仲連は斉の人である。
体は大きく人と違っていて、拘束されないのを好み、どうしても仕官しようとしなかった。
趙に遊説に行った。
たまたま秦軍が邯鄲を包囲し、魏の使者である新垣衍は趙が秦の昭王を尊んで帝と称させたかった。
魯仲連は平原君に会って言った。
「梁(魏の別称)の使者である新垣衍はどこに居るのでしょうか。私は貴方のために彼を帰してみせましょう」
平原君は仲介して新垣衍に会わせた。
新垣衍が言った。
「私が今包囲された城の中にいる者を視ると、皆平原君に取り入ろうとする者ばかりだ。しかし先生のお顔を観るとそういう人間ではない。どうして長い事包囲されたこの城から去らないのですか」
魯仲連は答えた。
「世間は、清廉潔白な鮑は料簡が狭くて死んだとしているが、そうではない。一般の人は彼の本心をを知らないから自分自身のために死んだと思っている(私も同様である)。秦は礼義棄てて首功を尊ぶ国である。士を謀に使い、民を奴隷ように使う。昭王がもし帝となるのであれば私は東海身を投げて死のう。秦の民になるなんて耐えられんよ」
ここにきて新垣衍は敢えてまた秦が帝と称することに関して言及しなかった。
平原君は魯仲連を封じようとした。
しかし魯仲連は辞去し、終身二度と(平原君と)会うことは無かった。


史記にいう。
范蠡は越王勾践に仕え、苦労し協力して勾践と深謀すること二十余年に及んだ。
ついに呉を滅ぼして、会稽の恥を雪いだ。
范蠡は思った。
大きな名声を持っていては長くいることはできまい。また勾践は憂いをともにすることは出来ても安楽はともに出来ない人間だ。
そこで手軽な宝や珠玉を積んで親族等とともに舟に乗って海出て越を去りついに帰らなかった。
斉に行って姓名を変え、鴟夷子皮と自称した。
隠れて海辺で耕作して父子で数千万の財産を築いた。
斉の人はその賢を聞いて宰相にしようとした。
范蠡は嘆息して言った。
「家にいては千金を蓄え、官にいては卿宰相になった。これは庶民の極みである」
そして宰相の印綬を返し、財産の全てを散じ知友や同郷の人間に分与して重宝だけを持って隠密裏に斉を去って陶に落ち着いた。
それは陶は天下の中央で交易するための道に通じているので富をなせると思ったからだった。
陶朱公と自称した。
瞬く間に巨万の富を築いた。
天下の人々は陶朱公をたたえた。
このように范蠡は三度うつっては名を天下に成したのである。
陶で老いて亡くなった。