伏波標柱 博望尋河


後漢の馬援あざなは文淵、扶風茂陵の人である。
若いころから大志をいだいていた。
かつて賓客に言った。
「丈夫、志をなす。窮してはますます堅く、老いてはますます壮んになるべきだ」
建武年間に虎賁中郎将を歴て、(光武帝に)しばしば引見された。
人なりは鬚髪明らかで、眉目は絵に描いたようで、進対の礼も見事であった。
また兵策を善くした。
帝はいつも言っていた。
「伏波が語る兵略は、私の意見と同じだ」
なので馬援に謀があれば用いられない事は無かった。
後に交趾の女子徴側等が反乱し、蛮夷は皆応じた。
馬援は伏波将軍を拝命し、これを撃ち破り、新息侯に封ぜられた。
馬援は牛を潰し、酒をこして軍士を慰労した。
楼船の戦士を率いて進軍し残党を撃ち、嶠南をことごとく平定した。
野地にまた武陵五渓の蛮夷を撃ちたいとねがった。
この時六十二歳だった。
帝は老齢である事を愍れんだ。
馬援は言った。
「私はまだまだ甲を被り馬に乗れます」
帝をこれを試した。
馬援は鞍によってふりかえり、まだ役に立つ事を示した。
帝は笑って言った。
「矍鑠たるかなこの翁」
ついに馬援を遣わして征伐させた。
進軍して壺頭に宿営した。
暑さが甚だしく病気になって陣没した。
廣州記にいう。
馬援は交趾に至り、銅の柱を立てて漢の極界とした。


前漢の張騫は漢中の人である。
建元年間に郎となった。
武帝は胡を滅ぼしたいと思い、使者となる者を募った。
張騫は応じ月氏に使者として赴く途中、匈奴にとらわれ十余年になったが、漢の節を持って失わなかった。
従者と共に脱出し月氏へ向かった。
後に(帰路にまたとらわれた匈奴から)逃げ帰り、太中大夫を拝命した。
彼がみずから訪れたのは、大宛、大月氏、大夏、康居で、その近隣の五,六カ国は伝え聞いたもので、天子のためにその地形のあるところを報告した。
元朔年間に校尉として大将軍(衛青)の匈奴討伐に従い、水草のあるところを知っていたので軍では食料が欠乏することがなかった。
(その功績をもって)博望侯に封ぜられた。
賛にいう。
禹本紀(史記ではない)に言う。
河は崑崙に源泉がある。
崑崙は高きこと二千五百余里、太陽と月は互いに避け隠れて光明を為すところである。と。
張騫が大夏に使者として赴いてから、河の源泉がわかった。
そうして崑崙なんてものをみた者がいたのか。と。
旧注に言う。
支機石を持ち帰ったと。
出典は不明である。