華歆忤旨 陳群蹙容


華嶠の譜序にいう。
文帝(曹丕)が禅譲を受け、朝臣は皆爵位を受けた。
華歆は良い顔をせず旨にさからった。
司徒となったが、爵に進まなかった。
帝はながいことよろこばなかった。
そこで尚書令の陳群に問うた。
「私は天命に従って禅譲され百辟群后は皆喜び、それを顔や声に出さない者はいなかった。なのに相国(華歆)とお前がよろこばないのはどうしたことか」
陳群は言った。
「私と相国とはかつては漢朝の臣でした。心では嘉しておりますが、義理としてよろこべないのが顔にでているのです」
帝は大いに悦んだ。
韓歆あざなは子魚、平原高唐の人である。
明帝の時に進んで太尉を拝命した。


世説にいう。
文帝が禅譲を受けると陳群は憂えた顔をしていた。
陳群あざなは長文、潁川許昌の人である。
司空・録尚書事に進んだ。
はじめ陳群が子供だった時、祖父の陳寔は彼をいつも奇異であるとして宗人父老に言った。
「この子は必ず宗(一族)を興すだろう」と。
博物誌にいう。
大丘の長である陳寔、陳寔の子で鴻臚卿の陳紀、陳紀の子の陳群、陳群の子の陳泰の四世は漢魏において名声が高かった。
しかしその徳はしだいに減少していった。
時の人が語って言った。
「公(陳群)は卿(陳紀)に慙じ(劣り)、卿は長(陳寔)に慙ず」
蹙は字はあるいは蹙の字である。