桓譚非讖 王商止訛


後漢の桓譚あざなは君山、沛國相の人である。
音律を好んだ。
世祖(光武帝劉秀)が即位すると、議郎給事中を拝命した。
(光武帝は)後に詔を下して霊台をどこに設置すれば良いか会議させた。
当時帝は讖を信じ、多くの嫌疑を図讖にしたがって決定していた。
そして桓譚に言った。
「私は讖にしたがってこれを決定しようと思うがどうだろうか」
桓譚は言った。
「私は讖を読みません」
帝がどうしてか問うた。
桓譚は図讖は経(五経の類)ではないと極言した。
これを聞いた帝は大いに怒り言った。
「桓譚は聖をそしって法をないがしろにしておる」
そして引き下ろして斬ろうとした。
桓譚は叩頭して血を流すほど謝ったので光武帝の怒りを解くことが出来た。
朝廷から出て六安郡の丞となって亡くなった。


前漢の王商はあざなを子威といい、涿郡蠡吾の人である。
成帝の時左将軍になった。
京師の民衆は理由なく騒ぎ、洪水になると言っていた。
皆奔走し蹂躙し合い、老弱泣き叫び長安は大混乱に陥った。
天子は公卿を召して論議させた。
大将軍の王鳳(王商の兄)が言うには、、
「太后と帝及び后宮は船に乗れば良い。吏民は長安城に上って水を避ければ良い」と。
王商は言った。
「古より無道の國でも洪水が城郭に達したことはございません(無道の国には天罰として洪水がくるという話から)。今政治はよくおさまり、世の中に兵革は無く、上から下まで安泰です。どうして洪水がやってくることがありましょうか。これは絶対に誑言です」
帝は建議をとりやめた。
するとやはり誑言であった。
帝は王商の固守を美荘としてしばしば褒めた。
王鳳は大いに慙じた。
後に(王商は)丞相となった。
人となりは質素でかつ威厳があった。
身長は八尺余、身体は大きく、容貌も人より優れていた。
単于が来朝し王商は未央宮内で座っていた。
単于は進んで王商に拝謁し、仰ぎ見て畏れ退いた。
帝はこれを聞いて嘆息して言った。
「真に漢の宰相である」
王鳳は王商を怨み、密かにその欠点を探した。
そしてついに見つけ、王商は宰相を罷免され亡くなった。