黄霸政殊 梁習治最


前漢の黄霸あざなは次公、淮陽陽夏の人である。
武帝の末期に待詔の身で銭を入れて官に褒賞され、侍郎謁者に補せられる。
後にまた穀物を入れて左馮翊二百石の卒史に補せられた。
馮翊では黄霸が財産を入れて官途についたので、右職には配せず、郡の銭や穀物を計算をさせた。
すると帳簿は正しく、清廉であると称された。
宣帝の時、揚州刺史に抜擢され、賢良高第で潁川太守となった。
つとめて教化を行い、誅罰を後にした。
外は寛で内は明らかなので、吏民の心を得て、戸口(人口)は年ごとに増え、その政治は天下第一だった。
めされて京兆尹となった。
(他人の罪に)連座して、貶されまた潁川太守となった。
前後八年、郡中はますます治まった。
この時、鳳凰・神爵がしばしば郡國に集まったが、潁川がもっとも多かった。
天子は黄霸の政治行いが長者であるとして詔を下して称揚し、爵位は關内侯となり、黄金百斤、秩中二千石を賜った。
そして後に丞相となった。
黄霸は材民を治めるのに長じていた。
丞相となって綱紀号令を総べるようになると、風采は丙吉、魏相の于定國に及ばず、功名は郡を治めていたころより劣った。


魏志にいう。
梁習あざなは子虞、陳郡柘の人である。
別部司馬として并州刺史を領す(刺史代行となった)。
高幹のが荒乱させた余燼をうけて、胡狄が境界にいて跋扈していた。
吏民は逃亡や叛してその(胡狄の)部落に入り、兵は衆を擁して寇害をなして互いに扇動しところどころにたむろしていた。
梁習が赴任してくると誘い諭し招き入れ、皆その豪右を礼召して、稍く互いに推薦し幕府にいたらせた。
辺境は粛清され、百姓は野にまで家を建てた。
農業養蚕を勧めて令が施行されると禁をおかすことはなくなった。
名士を貢達(中央に推薦)し、彼等は皆、世に名前を知られた。
太祖(曹操)はこれを嘉して、關内侯を賜った。
さらに仮の刺史だったのを真の刺史に任命した。
長老達思った。
「聞識したことのある刺史の中には梁習に及ぶ者はいない」と
文帝の時、また刺史となった。
政治はいつも天下で最高であった。
旧本に(梁習の名前の)習が集となっているが間違いである。