姜維膽鬥 盧植音鐘


蜀志にいう。
姜維あざなは伯約、天水冀の人である。
費禕とともに録尚書事だった。
督中外軍事を加えられ、大将軍に遷り、戎馬を整えおさめ、出撃して戦い、しばしば魏の将であるケ艾に破られた。
後主(劉禅)が降服すると、姜維は弋を投げ鎧を棄てて、鎮西将軍鍾會の元へ身を寄せた。
鍾會は姜維を厚遇し、外出時は一緒の輿に乗り、座る時は席を同じくした。
そして長史の杜預に言った。
「伯約は中土(中華)の名士と比較すると公休(諸葛誕)、太初(夏侯玄)も及ばないであろう」
鍾會はすでにケ艾を陥れていた。
そして姜維等に言った。
「成都に行き、自ら益州の牧を称そうと思う」
そして姜維に兵五万を授け、前駆させようとした。
魏の将士は憤慨し鍾會と姜維を殺した。
世語にいう。
姜維が死ぬ時、きもを解剖された。
その大きさは一斗もあった。


後漢の盧植あざなを子幹、涿郡涿の人である。
音声は鐘のようだった。
わかくして鄭玄とともに馬融に師事し、よく古今に通じ、学は研精を好んで章句は守らなかった。
馬融は外戚で豪家である。
多くの女倡を列ね前で歌ったり舞ったりさせた。
盧植は侍して数年になったが、一度も(踊子達を)かえりみる事はなかった。
馬融はこのことから盧植を尊敬した。
学問を終えて辞して帰り、門を閉じて教授した。
剛毅な性格で大節があった。
常に世をすくおうとする志を懐いて詩賦を好まなかった。
よく酒を飲み一石にもなった。
霊帝の時に尚書となった。