王濬懸刀 丁固生松


晋書にいう。
王濬あざなは士治、弘農湖の人である。
ひろく墳典を渉猟し、疎通亮達していた。
恢廓でありながら大志をいだいていた。
かつて家をたて、門前の道を開いた。
広さは数十歩、長戟幡旗をいれることが出来るようにしたがった。
衆人は皆これを笑った。
河東従事に任じられた。
太守県令に清廉潔白でない者がいた。
皆、おうしゅんをの態度を見て逃げ去った。
巴郡太守となった。
巴郡は呉との境にあって、兵士は兵役に苦しみ男が生まれたらほとんど養わなかった。
王濬は法律を厳しくして徭役租税を軽減した。
子を養育する者は徭役租税を免じた。
そのため大人に育った子供は数千人にも及ぶ。
廣漢太守に転任した。
恩恵を与え善政をしいたので百姓は彼を信頼した。
夜、三刀を寝室の梁にかけ、一瞬のうちにさらに一刀が増える夢を見た。
王濬は不吉に感じた。
すると話を聞いた主簿の李毅が賀を献じて言った。
「三刀は州の字です。これに一刀が増えたのは明府必ず益州に赴任するということです」
果たして益州の刺史となった。
後にまた益州の刺史となった。
武帝(司馬炎)が呉を討伐しようと謀り、王濬に詔を下して軍船を修造させた。
そこで大船を作って舫を連ね、木を城にして樓櫓を起こして、鷁首怪獣を船首に描き、長江の神を懼れさせた。
艦船の盛大さは古から今までなかったものであった。
龍驤将軍を拝命し、軍を監督し兵を統率して以前巴郡にいたときに成長した者達が皆徭役に堪え軍に参加した。
彼等の父母は戒めて言った。
「王府君(王濬様)がお前たちを生かしたのだ。お前たちは必ずお力になるのだぞ。死を惜しんではならん」
王濬は蜀から出発し、兵は刃に血を塗るようなことなく、流れにしたがって棹を鼓し、すぐに三山にいたった。
孫晧は降服した。
王濬はいましめを解いて璧を受け、ひつぎを焚いて、京師に送った。
この功績で襄陽縣侯に封ぜられた。
撫軍大将軍に累転した。
無くなって武と謚された。


呉志にいう。
丁固は孫晧に仕えて司徒となった。
呉書にいう。
はじめ丁固が尚書だったときに、松の樹が腹の上に生える夢を見た。
人に言った。
「松の字は十八公である。十八年経つと私は公になるだろう」
そして夢の通りになった。