李陵初詩 田横感歌


前漢の李陵あざなは少卿、前将軍李廣の孫である。
わかくして侍中建章監となった。
騎射が得意で人を愛し、謙遜して士にへりくだり、高い名声を得た。
武帝も李廣の風があるとして、騎都尉に任命した。
天漢二年、歩卒五千を率いて匈奴遠征に行った。
敗戦し、ついには匈奴に降服した。
はじめ李陵は蘇武ともに侍中だった。
蘇武が匈奴に使者として赴き翌年李陵は降服した。
後に昭帝が即位して匈奴と和親した。
蘇武は漢へ帰還できることになった。
李陵は詩をつくって送別した。
携手上河梁
游子暮何之
徘徊蹊路側
恨恨不得辭
晨風鳴北林
熠燿東南飛
浮雲日千里
安知我心悲
蘇武の李陵と別れる詩(李陵にかえした詩)
雙鳬倶北飛
一鳬獨南翔
子當留斯館
我當歸故ク
一別如秦胡
會見何渠央
愴恨切中懐
不覺涙霑裳
願子長努力
言笑莫相忘
五言詩はこれからはじまった。


前漢の田横は狄の人で、もとの斉王田氏の一族である。
秦の末に自立して斉王となった。
漢将の灌嬰は田横の軍を破り、斉の地を平定した。
田横は誅殺されることを懼れ配下と共に海上の島へ逃れた。
高帝(劉邦)が田横を召した。
だから食客二人と傳に乗って洛陽にいたり、使者に謝して言った。
「私ははじめ漢王とともに南面して孤と称していました(王位にありました)。今王は天子となり、私は亡虜となって、その愧すでにはなはだしい」と。
自ら首を刎ね食客にその首を奉じ上奏させた。
高帝は田横のために涙を流し、王の礼で彼を葬り、二人の食客を都尉に任命した。
田横が葬られると、二人の食客は墓の側に穴を掘って自ら首を刎ねた。
田横の与党五百人はいまだ海上の島にいた。
田横が死んだことを聞くと皆自殺した。
李周翰(唐の時代の学者)が(「文選」の注で)いう。
田横が自殺した。
従者は敢えて哭しなかったが、哀しみは深かった。
だから悲しみの歌をつくって情を寄せた。
後にこれを広めて薤露蒿里の歌として葬送の歌とした。
李延年の時になって二つに分け、薤露は王侯貴人を送り、蒿里は士大夫庶人を送る。
棺を引く者がこれを歌う。
だからこの歌のことを挽歌というのである。