周嵩狼抗 梁冀跋扈


晋書にいう。
周嵩あざなは仲智、兄は周あざなは伯仁、汝南安成の人である。
中興のとき、周等は並んで貴位にのぼった。
冬至に酒宴をひらいたことがあった。
母がさかずきを挙げて三人の子(周、周嵩、周謨)に言った。
「私が長江を渡ったときは身を寄せるところがありませんでした。思いがけずお前達が高貴な位につき目前に並ぶとは。私は何を憂えようか」
すると周嵩が立って言った。
「おそらくは仰るようにはならないでしょう。伯仁は志は大きいが才は短く、名は高いですが見識は暗い。そして好んで人の過失に乗じます。身を全うする事はかないますまい。私も坑直な性格で、世にいれられません。ただ阿奴は平凡ですから母上のお側におりましょう」
阿奴とは周嵩の弟の周謨の幼名である。
後に周・周嵩は王敦に殺害された。
周謨は侍中・護軍を歴任した。
世説新語には坑直を狼抗としてある。
晋書周伝に處仲は剛腹強忍、狼抗にして上(主君)をないがしろにするとある。
處仲とは王敦のあざなである。


後漢の梁冀あざなを伯卓、褒親愍侯竦の曾孫である。
人となりは鳶肩豺目(いかり肩でたて眼)、眼光鋭く、言葉はどもっていた。
大将軍を拝命した。
侈暴はいよいよ酷くなった。
冲帝が崩御すると、梁冀は質帝を擁立した。
(質帝は)幼いながらも聡明で梁冀が驕慢で横暴なのを知った。
群臣を朝見し、梁冀を指して言った。
「これは跋扈将軍である」
これを聞いた梁冀は深くにくみ、ついには帝を鴆殺(毒殺)し、桓帝を擁立して、太尉の李固、杜喬を枉害(無実の罪を着せて殺害)した。
海内はなげきおそれた。
四方の徴発、歳時の貢物は、まず一番の上物を梁冀のところに運び、皇帝には次の品をまわした。
一門前後、七人が侯に封じられ、皇后が三人、貴人が六人、将軍が二人いた。
位にあること二十余年、窮極満盛、威は内外に行われ、百官は目をそむけ命令に背くことはなく、天子は己をつつしみ親豫するものがいなかった。
帝はこれに不平をいだいていた。
後に怒り梁冀を誅殺し、その親族を老幼を問わずに皆棄市(処刑)した。
また梁冀の関係者の公卿、列校、刺史、二千石で死んだものは数十人、故吏(梁冀の役人)(梁冀の)賓客で罷免された者三百余人、このため朝廷に人がいなくなった。
梁冀の財産は三十余萬を没収し、王府を満たし、それにより天下の租税の半分を減額した。