楊修捷對 羅友默記


後漢の楊脩あざなは徳祖、太尉楊震の玄孫である。
学問を好んで俊才があった。
丞相曹操の主簿となった。
曹操は漢中を平定した。
なので劉備を討伐しようとした。
しかし進軍する事は出来なかった。
漢中を守ろうとすれば功をなすのは難しかった。
曹操はただ鶏肋と言うだけだった。
外曹は意味がわからなかった。
楊脩一人だけが言った。
「鶏肋はこれ食らえば食べるところが無く、かといって棄てるには惜しい。公(曹操)は帰還することを決定されたのだ」
曹操はここにおいて軍を撤退させた。
楊脩の機転の多くはこの類であった。
またかつて外出する時に、曹操が外事を問うことがあるだろうと、あらかじめ答記をつくって守舎の子(曹植)にいましめ言った。
「もし命令がでることがあれば、順次に依ってこれを見なさい」
はたしてその通りになった。
曹操は答えが速やかだったのを怪しみ、調べて実情を知ると楊脩を嫌った。
後に事によって殺した。
語林にいう。
楊脩が江南に至り、曹娥の碑を読んだ。
碑背に八字があってそれは「黄絹幼婦外孫韲臼」とあった。
曹操は理解できず、楊脩に聞いた。
「卿は知っているかいないのか」
楊脩は答えた。
「これは知っていますよ」
曹操は言った。
「しばらく言うな。朕が思い浮かぶまで待て」
三十里進んで理解した。
そして楊脩に解答させた。
楊脩は言った。
「黄絹は色絲でこれは絶の字です。幼婦は少女、少女は妙の字です。外孫は女子、女子は好の字です。韲臼は辛を受けます、辛を受けるのは辤の字です」
曹操は言った
「朕の考えもそうだ」
俗に言う。
有知無知、比べれば三十里。


世説にいう。
羅友は幼い時、多くの人は彼のことを癡と言った。
常に人の祠を伺って、食を乞おうとしていた。
いつもはじているようではなかった。
人となりは強記だった。
桓宣武(桓温)が蜀を討伐するのに従軍し、蜀の城をしらべ歩き、道陌・果木、皆これを暗記した。
後に宣武が蜀道の事を集めると、失念しているものがあった。
羅友はすべてを一一列挙した。
座っていたもの達は皆嘆伏した。