晏殊(あん しゅ)
淳化二年(991)〜至和二年(1055)
字・同叔
謚・元献
撫州臨川の人



章懿皇后が亡くなると李淑が葬儀を取り仕切り、晏殊が墓誌を書いた。
それには「女子を一人生んだがすぐ亡くなり、男子はいない」とあった。
仁宗はこれを恨んだ。
親政すると、この文を取り出して宰相(呂夷簡)に示した言った。
「先の皇后は朕を生んで育んでくれた。晏殊は近くにいたのにどうしてそれを知らないことがあろうか。公主を一人生んで育まないとはこれはどういう意味だ」
「晏殊が悪かろうと思われます。しかしながら奥のことは秘密であります。私は宰相の位に居りますが少しは伝え聞いておりましたが詳しくは存じあげません。晏殊が知らなかったのも無理ないことです。しかも章献太后が権柄を握っているのに先の皇后が陛下の実母と明言してもよいでしょうか」
帝はしばらく黙っていた。
晏殊を金陵太守として外出させる命令を下した。
翌日になると遠いからと言う理由で改めて南都太守とした。
晏殊が宰相となると、八大王が危篤となった。
帝は見舞いに行った。
八大王は言った。
「私は長いこと官家を見ていません。今、宰相は誰でしょうか」
「晏殊だ」
「この人の名前は図讖にあるので、用いてはなりませんぞ」
帝は帰ると図讖を見て成敗(成功と失敗)の語を見つけた。
墓誌のこととあわせて晏殊を斥けようとしたが、詔勅の起草にあたった翰林学士の宋祁が強硬に反対したため。位階を二つ下げて潁州の知事とした。
辞令の内容は「広く土地経営をして金を儲け兵を使って利益を得ようとした」であって他の罪で処分されたことにされた。
晏殊が重罪を免れたのは宋祁のおかげである。