張詠(ちょう えい) 
天福十一年(946)〜大中祥符八年(1015)
字・復之
号・乖崖
謚・忠定
濮州の人。
太平興国五年の進士
地方長官を歴任し、特に蜀では諸葛亮に比されるほどの治績を残す。



張詠は民間に採訪して、その内情にことごとく通じていた。
ただし、それは人に聞くだけであった。
張詠は言った。
「人には好き嫌いがあり、私の聡明を乱す。ただ、おのおのその仲間から話を詳しく聞けばわからないことは無い」
李畋がそれはどういうことかと訪ねた。
張詠は言う。
「君子に訊ねれば君子の話が聞け、小人に訊ねれば小人の話が聞ける。それぞれの仲間に訊ねれば隠匿されたことでも十中八九はわかるものだよ」と。



張詠は寝室の中にあかりをつけて、香をたき、一晩中座ったままだった。
郡楼の上の太鼓番、水時計の音は明瞭であった。
もし、一刻でも間違いがあれば、必ず詰問した。
当番の者で詰問された者は畏れ、張詠の神明だと思った。
張詠は言った。
「時を告げる太鼓は中軍の号令である。私の目の前の号令がいい加減であればほかの事はどうなるのか」



張詠が杭州にいたとき、富豪がいて、今にも死にそうで、その息子は三歳であった。
そこで婿に命じて財産を管理させると次のような遺書を残してた。
「いつの日か財産分与を望むなら、三割を息子に、七割を婿に与える」
成長した息子は財産分与を求め訴訟を起こした。
婿は遺書を持って府にやってきて、この通りにしてくれと訴えた。
張詠はそれに目を通し、(故人を御霊をまつるために)地面に酒を注いで言った。
「お前の舅は知恵者だな。当時、息子は幼かったために、お前に財産を預けた。そうしないければ息子はお前に殺されていた」
そして遺産の三割を婿に七割を息子に与えるよう命じた。
皆泣いて謝り、張詠の明断に従った。



張詠が陳州にいたころ、ある日の食事中に官報が届いた。
張詠は食べながらそれを読んだ。
するとつくえをたたいて慟哭しはじめた。
しばらくしてから泣き止み、長いこと指をならした。
指をならし終えると今度は罵倒し続けた。
丁謂が寇準を逐ったからである。
張詠は禍が自分に及ぶだろうと思い、三大戸を招いて博打をはじめた。
袖からイカサマ用のサイコロを取り出し彼等に勝った。
そして田地を勝って隠遁し自ら悪評を撒いた。
丁謂はこれを聞いて害そうとしなかった。
私(朱熹)はこれを聞いて、これは知者のやることで、賢者のすることではないと思う。
賢者には義があるだけである。
だから禍を避けようとしないだろう。
むしろ禍は避けることが出来るものではない。



張詠は言った。
事に対処して臨み三難あり。良く見ることが一つ。見てよく行うことが二つ。行うにあたりかならず果断に処することが三つ。



王陶が語っていた。
「臨川の晏・がかつて私のために言った。
張詠は蜀から帰還し、真宗に蜀で兵乱が起きたのは朝廷の処置が緩急時宜を失するものがあったからですと上奏し、さらに王旦程度は太平の宰相でしかないと言った。
真宗は黙っていた。
別の日、便殿に張詠を召し寄せ言った。
『王旦は真に太平の宰相である』
そして軒先を見つめそれ以上何も言わなかった。
張詠はそそまま退廷した。
一言の失敗ですべてを台無しにしてしまった。
物を言うのはこのように難しいものだ」