趙普(ちょう ふ) 
龍徳二年(922)〜淳化三年(992)
字・則平
謚・忠献
蘇州に生まれ洛陽で育つ
後周のとき、趙匡胤の幕下に入り参謀となる。
宋建国最大の元勲



趙普が徐州の判官だったとき、太祖とともに語り奇とされた。
たまたま盗百余人を捕らえ処刑されることになった。
趙普は冤罪の者が混じっているだろうと思い、太祖に言って再審させた。
こうして命が助かったのは十に七、八だった。



太祖はすでに天下を得て、李筠、李重進を誅した。
趙普を召して言った。
「天下は唐末期から数十年の間に十姓もの帝王がかわるがわる立った。戦火はやまず、人々は地にまみれ途端の苦しみにあっている。それはどうしてだ。私は天下の兵を休ませ、国家のために長久の計画を立てることを望む。どうしたら良いだろうか」
「陛下がそう仰られるのは天地人神の福でございます。唐末以来、戦闘がやまず、国家が安定しない理由は他でもなく、節鎮(節度使)が重く用いられ、君主が弱く、臣下が強いからです。これに対する方策は特別の策は必要ありません。ただその権力を奪い、その財産を制限し、配下の兵を取り上げれば天下は自然に安定するでしょう」
趙普が全てを言い終わらないまでに帝は言った。
「卿よ、みなまで言われるな。私はとっくに悟っているよ」
しばらくたって、帝は晩朝(夕刻に行われた接見)にかこつけて、昔から付き合いのある、石守信と王審g等と酒を飲んだ。
酒宴もたけなわとなると、帝は左右を退かせてから言った。
「私は、汝等の力が無かったらこの座につくことは出来なかった。汝等の功績をいつも思っている。しかし天子というのは艱難で、節度使のほうが楽である。私は玉座についてから枕を高くして寝たことがない」
「どうしてでしょうか」
「難しいことではない。帝位には誰もがつきたいからね」
「陛下、何でそんなことを仰います。天命はすでに下りました。誰が敢えてそんな異心を懐きましょうや」
「そうではない。汝等にそのつもりがなくとも、汝等の麾下の兵士が富貴を求めればどうなる。一度黄袍をまとってしまったら、汝が望まなくともそういうわけにはいかなくなる」(注:趙匡胤は酔って寝ているところを、弟の趙匡義と趙普に黄袍を着せられ気がついたら皇帝に祭り上げられていた)
「我等は愚かにしてこのことに考え及びませんでした。陛下、どうか我等に生きていける道をご教授願います」
「人生は白馬が走り抜けるほどである(短い)。富貴を極めた者は、金銀財宝を積み、娯楽に興じ、子孫が貧乏にならないことを望むだけだ。どうして汝等は兵権を手放し、良田と邸を買って、子孫のために安寧の策を立てないのか。歌児、舞女を置いて毎日酒を飲んで天寿を全うすれば、君臣の間に嫌隙はなく上も下も安んじ、こんな良いことはないだろう」
「陛下がこのように臣下の事を思われるのは、いわゆる『死を生かし、骨に肉する』です」
翌日、彼等は皆、病気と称して兵権を返上したいと願い、帝はこれを許して、散官(肩書きだけの名誉職)に就任させ、彼等を慰撫しては多くの財物を賜った。
皇室と婚姻を結び、配置換えに応じ、新体制に組み込まれた者には親衛軍を主につかさどらせた。
その後、転運使、通判を置いて、各地の財政をつかさどらせた。
天下の精兵を収め、緊急時に備えさせ、もろもろの功臣も終わりを全うし、子孫は富貴で、現在も続いている。
趙普の深謀遠慮、太祖の聡明果断がなければ天下はどうして平和になり、白髪の老人となるほどながいこと戦争を見ないですんだであろうか。
聖賢の見通しは遠くまでおよんでいるのである。
韓王(趙普)は陰険酷薄で、睨まれたという小さいことで人を中傷することが多かった。
しかし、その子孫が今も幸福で続いている。
国初の大臣で彼に及ぶのはほとんどいない。
天下を安定させた謀は大きくないわけないだろう。
太祖は韓王の謀を用い、各地に使者を派遣して精兵を選び抜かせた。
人に勝る才能のある者は、禁軍に入れて京師に集めていざという時に備えさせた。
支給米を多くして皇帝自ら閲兵、訓練をして皆一人で百人を相手する。
諸鎮は兵力、兵の強さが京師に適わないことを知って、異心を懐く者がいなかったのは、太祖が幹を強く枝を弱くし、平和を乱されないようにしたからだ。



太祖が韓王(趙普)を寵待することは左右の手のようであった。
御史中丞の雷徳驤は「趙普は強いて人の邸宅を買い、賄賂を集めています」と劾奏した。
帝は怒って叱責して言った。
「鼎鐺にすら耳はある。お前は趙普が私の股肱の臣であることを聞いていないのか」
左右に命じて庭で引き回させること数周、おもむろにまた冠をかぶらせ、召して殿にのぼらして言った。
「今後こういうことがないように。しばらくお前を赦す。外でこのことを言わないように」



太祖は即位したころ、お忍びで出歩き、民間の様子を伺った。
また不意に功臣の家に立ち寄ったりもした。
趙普は退廷しても衣服を改めずにいた。
ある日、大雪が降った。
夜になって趙普はこんな日だから今日来られることは無いだろうと思った。
しばらくすると、門を叩く音がするので、すぐに門の外に出ると、太祖が風雪の中に立っていた。
趙普は恐縮して太祖を招き入れた。
太祖は言った。
「晋王(後の太宗・趙匡義)とも約束していたのでね」
しばらくして晋王もやってきた。
趙普邸の客間に敷物を重ねて座り、炭を燃やして肉を焼き、趙普の妻が注いでまわった。
太祖は彼女を(親しみを込めて)姉さんと呼んだ。
趙普は将容として聞いた。
「夜も更け寒さも厳しいです。こんな時に陛下はどうしてお出ましになられたのでしょうや」
「私は目を閉じても眠れない。周りはみな他人の家のようだ。だから貴方に会いに来たのだ」
「陛下、天下を小さく見て無いでしょうか。統一するのは今ですよ、願わくば本心をお聞かせください」
「私は太原を攻めようと思う」
趙普は黙り、しばらくして「私の知るところではありません」と言った。
太祖は理由を聞いた
「何故か?」
「太原は西北ニ方面あたります。一挙にこれを衝くと二つの外敵を同時に相手せねばならなくなります。しばらく放っておいて諸国を平定すれば、(太原という)弾丸黒誌(小さな)の地は、逃げ場がなくなります」
「私の意中もその通りだ。ちょっと貴方を試しただけだよ」
と太祖は笑って言った。
そして江南征伐が決定した。
太祖は言った。
「王全斌は蜀を平定したとき、多くの人を殺した。そのことを思い出すと心が痛む。彼を使うわけにはいかない」
そこで趙普は曹彬を大将に、藩美を副官に推薦した。



太祖は符彦卿に兵をつかさどらせようとした。
趙普は「符彦卿は名声も位も非常に高いです。だから彼に兵権を委ねるようなことはあってはなりません。一人の人間に権能を集中させるのは危険極まりないことです」と反対した。
しかし太祖は諫言をいれずに詔を発した。
すると趙普は発せられた詔を懐に入れ、謁見を求めた。
太祖は不機嫌に言った。
「なぜ、卿がそこまで符彦卿を疑う理由は何か。私は符彦卿を強く信頼し期待も大きい。彼が背くようなことがあるだろうか」
「では陛下はどうして周の世宗に背いたのですか」
太祖は黙ってしまい、結局取り止めた。



ある日、趙普はある人を任用したく上奏を行った。
太祖は許可しなかった。
翌日また同じ上奏を行った。
太祖はまた却下した。
さらに翌日、また同じ上奏を行った。
太祖はついに怒りその上奏文を引き裂いて投げ捨てた。
趙普は顔色一つ変えず、おもむろに上奏文をを拾い、帰宅してからそれを補修して翌日またそれを上奏した。
太祖は悟ってその人を任用すると適職であった。



ある人は功績を立てたが、太祖は嫌っていたので昇進させなかった。
ある日、趙普が昇進させるよう強く進言した。
太祖は怒って言った。
「私がどうしても昇進させなかったらどうする」
「刑罰を用いて悪を懲らしめ、賞与で功績に報いるのは、昔からの通道です。かつ、刑賞は天下の刑賞であって、陛下の刑賞ではございません。なのに感情に左右されてご自身のなさりたいようにするのは如何なものでしょうか」
これを聞いた太祖は激怒し席を立った。
趙普も立って付随い、太祖が奥に入ってしまうと、門の前に立ったまま立ち去ろうとしなかった。
太祖は悟ってその人を昇進させた。



国初、趙普は宰相となり、執務室の椅子の後に二つの大甕を置いた。
そして投書、意見書をすべてこの中に入れて一杯になったら人通りの多いところで焼き捨てた。



太祖は不意に趙普の邸にやってきた。
この時、両浙の呉越の王である銭俶が使者を遣わして親書及び海産物十瓶を趙普に送った。
それを左廡下においてあった。
そこへたまたま太祖の乗った車駕がやってきた。
趙普は慌てて出迎え、片付ける余裕が無かった。
太祖が顧みて言った。
「これは何だ」
趙普は事実を答えた。
太祖は「(呉越産の)海産物なら良い物に違いない」と言い、命じてひらかせてみると、皆瓜の形をした金だった
これを見た趙普は惶恐頓首して言った。
「臣未だ書を読んでおらず、本当に知りませんでした。もし知っていれば報告したうえでしりぞけました」
太祖は笑って言った。
「かまわないから取っておけ。あいつ(呉越王銭俶)、国家のことはお前のような書生によっていると思っているんだろう」
なので趙普に命じてありがたく受け取らせた。



昭憲太后(趙匡胤の母)は聡明で、日頃から太祖の政治に参画していた。
(太后が)重態に陥った時、太祖はそばを離れずに看病をした。
太后は言った。
「お前が天下をとれた理由を知っていますか」
「すべては先祖と母上あなたのおかげでございます」
「違いますよ。後周の柴氏が、幼児を天子にしたからですよ」
と太后は笑って言ったあと、言葉を改め太祖に訓戒した。
「お前の後は、二人の弟に任せなさい。そうすれば天下とお前の子は安泰です」
太祖は頓首して泣きながら「どうして母上のお教えに背きましょうや」と答えた。
そこで太后は、趙普を枕元に呼び誓約書を作った。
趙普は末尾に自ら署名し「臣普書してこれを金匱に蔵す」と言った。
そして信頼の置ける宮人に命じて保管させた。
太宗が即位すると、趙普は盧多遜の讒言を受け河陽太守に左遷され、不安な日々をおくった。
太宗はある日、金匱を空け誓約書を読み、心に深く頷くところがあった。
使者を発し急遽趙普を召還した。
急な召還命令に趙普は動揺し、遺書をしたため、家族に別れを告げて行った。
都に到着すると、再び宰相に任命された。



趙普が河陽に左遷されていた時、彌徳超という者が無官から抜擢され太宗の寵愛を得ていた。
彌徳超は曹彬が謀反を企んでいると讒言をした。
太宗はこれを信じ、とりあえずの処置として、彌徳超を枢密副使とした。
数ヶ月して趙普が宰相に返り咲くと、強く論じ曹彬の冤罪を晴らした。
太宗は悟ってすぐに彌徳超を罷免し、曹彬の待遇を以前と同じようにした。
このことがあってから数日間、太宗は後悔し自信をなくして悄然としていた。
そして趙普に言った。
「朕の聴断が明哲でなかったから、もう少しで大事にいたるところであった。終日思い悩んで内心慙愧に耐えない」
「陛下は才能ある者を任用し、曹彬の冤罪を察し無実の罪を雪いでやりました。功労ある者を進め、罪のある者を誅しました。道理は明らかで、何かが生じればたちどころに判断を下します。これは陛下が明賢である証です。堯舜でもこれほどでは無いでしょう」
太宗ははじめて釈然として自信を取り戻した。



祖吉という郡司の奸臓の事(収賄)が発覚し投獄された。
もうすぐ郊礼が行われるので恩赦となるが、太宗は祖吉が貪欲で賄賂を好むことから大赦から除外しようとした。
趙普は次のように上奏した。
「腐敗した官吏が罪を犯せば、法を明らかにして正すべきです。しかし、国家が郊で天を祀るのは、天地の美を神明に告げることです。祖吉はそれほどの人物ですか。そのような者のために陛下が赦礼を破るほどのことではないでしょう」
太宗はその通りだと思って、祖吉を除外するのをやめた。