趙躯(ちょう く)
至道二年(996)〜元豊六年(1083)
字・叔平
謚・康靖
南京虞城の人
天聖五年の探花



王洙が言っていた。
「趙躯と歐陽修はともに館にあって、起居注を修した。
趙躯は重厚な性格で寡黙だったので歐陽修は軽んじていた。
歐陽修が知制誥に任命された時、韓gと范仲淹が中書省にいて、趙躯の文はよくないとして天章閣待制に任命した。
趙躯は意に介さず、韓g、范仲淹がいなくなると再び知制誥に任命された。
たまたま歐陽修の養女が従子の歐陽晟の妻となり、他人と姦通した。
事件は発覚し、歐陽修はこの時、龍図閣学士・河北都転運使だった。
韓g、范仲淹を憎む者達は歐陽修を罪に陥れようとして、『養女と密通している』と言い立てた。
帝は赫怒し群臣は何も言えなかった。
趙躯は上書して言った。『歐陽修は文学で仕えております。閨房のことで軽々しく名声を貶めてはなりません。私は歐陽修とは疎遠で歐陽修は私を遇するのは軽い。問題なのは朝廷のあり方です』書が奉ぜられたが、帝は喜ばず、人々はこのために恐れた。
趙躯は毅然として平日と変わらなかった。
しばらくすると歐陽修は結局罪を得て知制誥・滁州知事となった。
執政が密かに趙躯に責任を取って出て行くよう求めると、蘇州知事として転出した。
親の喪に服すために官を辞め、あけると復職して翰林学士に任命されたが、趙躯は歐陽修のほうが先輩だから飛び越えてはならないと上奏した。
上奏は入れられなかったが、当時このことは美談とされた」