种世衡(ちゅう せいこう) 
雍熙二年(985)〜慶暦五年(1045)
字・仲平
大儒である种放の兄子
文官から武官に転身。



种世衡がはじめて青澗城に赴任した時のこと。
西夏との国境近くでありながら防備は貧弱で糧秣もに乏しかった。
种世衡は公金を行商人に貸し与え投棄させ、その手段は一切を任せた。
すると間もなくすべての兵糧庫は一杯になった。
また、吏民に弓射を習わせた。
僧侶、婦人であってもこれを習わさせた。
銀を標的にして、中てることが出来ればその銀をその場で与えた。
命中させた者が増えてくると標的の銀を元の重さでありながら小さく厚くした。
徭役の軽重で揉めても射撃で決め、中てた方が優遇された。
また過失があった場合も射撃をさせ命中すれば赦免した。
このため、誰もが射撃に通じていた。
兵士が罹病すると、子供に看病させ、治らなければ鞭打ちにすると戒めた。
帰属した羌族を慰撫して、親しく彼等の家に赴き歓心を得たので、戦争になれば非常に役に立った。
敵の侵略を受け部落を破ると、彼等を家族同様に遇した。
功績を立てれば自ら身に着けていた金帯をといて与え、あるいは席の上においてあった銀器を与えた。
数年の間に青澗城は富強となり、延州の城塞の中で唯一、増援と糧秣補給の要請をしなかった。