范鎮(はん ちん)
景徳四年
字景・仁
成都華陽の人
宝元元年の進士、礼部の試験では首席だった
蜀太守薛奎が一目見て気に入り「偉くなり文学で名を知られる」と言った。



現代の勇者は誰かと司馬光に問う者がいた。
「范鎮だろう。その勇に敵う者はいない」
「范鎮の身長わずか五尺ばかりで衣服もそのままの丈では着られない。どうしてそんなのが勇者なんだ」
「汝の言う勇者とは目をいからせまなじりを裂き、髪を逆立て力は牛九頭を曳くほで、気合は三軍を凌ぐ奴のことか。それは匹夫の勇で外面の勇者である。范鎮の内面の勇者である。唐の宣宗の頃から皇帝は皇太子に関することを進化が口にするのは好まれない。万一そのことに口出しすれば車裂になったこともすくなくない。なのに范鎮だけはそのことに言及し、上奏は十数回ではすまず、自身と親族のことは全く顧慮しなかった。范鎮が何も罰せられることがなかったので、後につづいてそれに触れる者が出てきたのだ。つまり范鎮は予測できない危険を冒したわけで、勇の無い者にできることだろうか。人の情として天子と執政を畏れないことはない。親愛の情が最も深いのは親子である。執政が天子の父を尊ぼうとして、范鎮は昔のしきたりを引いて争った。勇無き者にこれができるだろうか。禄と位は人が欲しがるものだ。年老い病となり前途が無くとも執着してしまうものだ。なのに范鎮はすでに高い位に登り、名声もあり、宰相までもうすぐであった。しかし、言うことが通らないとなると六十三歳で致仕して復帰することはなかった。勇無き者に出来ることだろうか。出来ないことをを人がやれば敬服するしかない。呂誨の先見の明、范鎮の勇気ある決断はとても私の及ぶところではない。私は心から彼等を尊敬している。だから范鎮の伝記を作ったのだよ」