范仲淹(はん ちゅうえん)
端拱ニ年(989)〜皇祐四年(1052)
字・希文
謚・文正
蘇州の人
対西夏で活躍し西夏からは龍圖老子と呼ばれ畏れられる。
清末までの中国士人の理想像



范仲淹が南都の学舎にいたころ、昼夜苦学すること五年におよび、寝るとき衣をとかなかった。
夜になり、眠くなってくると顔に水をかけた。
しばしば御粥さえ満足には食べず、日が暮れてきてからはじめて食事を摂るほどであった。
同じ学舎にすむ学友がごちそうを贈っても、すべて断り受けなかった。



慶暦年間のこと、流賊の張海があちこちを荒らしまわり、高郵を通ろうとしていた。
知軍(責任者)の晁仲約は防ぎきれないと判断し(高郵)軍中の富豪を説いて醵金し、酒肴を整え人をやって迎え、さらに厚く贈り物した。
張海は喜んですぐに立ち去り暴虐なことはしなかった。
話が伝わり、朝廷は激怒した。
この時范仲淹は政府に、富弼が枢密院にいた。
富弼は晁仲約を法に従い誅殺しようとし、范仲淹は許そうとして皇帝(仁宗)の前で争った。
富弼は「盗賊が横行し、守るべきなのに守らず、それどころか民に金を出させそれを集めて賊に贈った。法律に従い誅殺すべきである。誅殺しなければ郡県の長官で守ろうとする者はいなくなる。聞けば高郵の民は晁仲約を憎み、彼の肉を喰らいたいとのこと。赦してはなりません」
と意見を述べた。
范仲淹は反論した。
「郡県に十分な戦力、防御設備があるのに、賊を防がず、賄賂を贈れば法に従い誅殺すべきです。しかし、高郵の兵も武器も不足しており、晁仲約がたとえ力を尽くして守戦を行うべきであったとしても、情状を酌量できる。晁仲約を処刑することは法の意図するところではないだろう。民の身になってみれば、財物を差し出しても、殺戮を免れたことは喜んでいるだろう。その晁仲約の肉を喰らいたいというのは間違った報告でしょう」
仁宗は范仲淹の意見に納得しそれに従ったので晁仲約は処刑を免れた。



韓gが言っていた。
范仲淹は呂夷簡と人物について議論をしたことがあった。
呂夷簡が言った。
「私は多くの人物を見てきたが、節操のある者はいないね」
「天下には人はいます。ただ貴方様がご存知無いないだけです。そういった先入観をもって人に接しているから、節操のある者が見つからないは当然でしょう。」



范仲淹は財物に執着せず、施しを好み、特に親族は厚く遇した。
富貴の身となってから、姑蘇の近くに良い田地を買い、義荘として、親族のうち貧しい者達を養った。
族人の中でもある程度の年をとり賢い者を一人選び、義荘の出納を任せた。
一人当たり毎日米一升を、一年に縑一疋を衣料として与え、婚礼、葬儀にも援助金を出した。
義荘で養っている親族はだいたい百人ほどであった。
范仲淹が死んで四十年が経つが、子孫達は現在も范仲淹の定めたきまりを遵守していい加減なことはしない。



范仲淹は若い頃から大節があった。
富貴貧賤、毀誉褒貶には心を動かされなかった。
志は天下にあって憂い嘆き、いつも言っていた。
「士はまさに天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむべきなり」
天子に仕え、人を遇するにも自ら信じるところを貫き、利害に左右されることは無かった。
なにかするべきことがあれば、あらゆる手段を尽くした。
「私が自分からしようとすることはまさにこんな感じだ。成否が私にはどうにもならないことで、聖人が首を傾げても、私はいい加減にはできない」