范質(はん しつ) 
乾化元年(911)〜乾徳二年(964)
字・文素
謚 当人が宋からのその他一切を断ったため無し
大名府宗城の人
九歳で文をよくし、十三歳で五経を諳んじた。
後唐の長興四年の進士
後唐から後周までの五代四王朝で重きをなし、宋初宰相を務める



後周の顕徳末年、太祖(趙匡胤)は殿前都点検(軍の最高司令官)に任命され、赫々たる功績をうちたてたが、謙ること甚だしかった。
諸将や諸校尉も彼に心を寄せていて、宰相の王溥も密かに誼を通じていた。
現在の南御苑は王溥が献上したものである。
ただ范質だけは後周王朝に忠節を誓い、最初から太祖には全くなつかなかった。
後周の世宗が崩御すると、北辺が契丹に侵入されたと報告があった。
そこで太祖に大軍を率いさせ撃退に向かわせた。
陳橋までくると軍は(趙匡胤を皇帝に推戴しようと)変(クーデター)を起こした。
そして開封に入城すると、韓勍は近衛兵を率いて応戦したが戦死した。
太祖が正陽門に登って城内を望んでみると、まだ帰順しないものがいた。
すると鎧を脱いで政事堂に入った。
まだ早朝だったので范質はまだ退廷していなかった。
叛乱の報告を聞き、范質は殿から下りて王溥の手を掴んで言った。
「よく考えずに将を派遣したのは我等の罪だ」
爪が王溥の手に食い込み血が流れそうだった。
王溥は何も言わなかった。
そして范質は太祖にまみえると言った。
「先帝は貴方を自身の子のように養われました。まだ遺体が冷めていないのに(死んで間もないのに)、これはいったいどういうことですか」
太祖は仁に厚い性格であったので、顔を覆って泣き出した。
しかしながらこうなっては勢いを止めることが出来ないと悟った范質は次のように言った。
「こうなった以上は、いい加減にしておくわけには参りません。昔から帝王には禅譲の礼がございます。今こそ行うべき時です」
そして形式一切を教えさらに言った。
「貴方は禅譲の礼を受ければ、太后(世宗皇后)には実母のように仕え、先帝の遺児は実子のように養わなければなりません。先帝の恩に背いてはなりませんぞ」
太祖は涙を拭き承知した。
それから、文武百官を率いて禅譲の礼をおこなった。
このことから太祖は范質を敬重し、宰相として何年も留め置いた。
范質が亡くなるまで、太后も幼主も恙無かった。
だから太祖も太宗も賢相の話になると真っ先に范質の名前を挙げた。