范祖禹(はん そう)
慶暦元年(1041)〜元符元年(1098)
字・淳甫または夢得
嘉祐八年の進士



はじめ司馬光は劉攽と劉恕を招いてともに書(資治通鑑)を編修した。
司馬光が洛陽に帰るにあたり、詔でその部下達を連れ帰ることを許されたが、ニ公(劉攽と劉恕)は官舎に残った。
范祖禹ひとり洛陽にいて、司馬光は編修作業のことはほとんど范祖禹に託した。
だからこの書における范祖禹の功績は大きい。
この時、富弼は隠居して洛陽にいた。
富弼はもとから厳毅で門を閉ざして人と会うことは稀であったが、范祖禹だけは厚くもてなされた。
危篤となると、范祖禹を呼んで秘密の上疏を授けた。
その概要は王安石が誤らしていることと新法の害についてであって、その言辞は憤切を極めていた。
富弼が亡くなると、ある人はそれを上奏しないほうが良いと言ったが、范祖禹は上奏した。



禁中から開封府へ乳母十人を雇用するという命令が出た。
范祖禹はたまたま腹の疾病で休んでいたが、これを聞いて、すぐに皇帝に上疏した。
「陛下は未だに皇后をお立てになっておられぬのに左右を近幸しておられます。色を好み性を伐つことが早すぎるようにおもわれます。陛下は現在十四歳であらせられますが、十二月生まれであらせられますので実際は十三歳でございます。これは女色に近づく御歳でしょうか。陛下は天地社稷宗廟の重任を承け、祖宗百三十年の基業を守り、億兆の(民の)父母であらせられます。お体を大切になさらなければなりません」
また太皇太后に上疏した。
「金持ちの家でも十三歳の子であれば、女色に近づけるようなことはしません。いわんや万乗の主においてをや。陛下が子孫を愛されこのことに留意されなければ、子孫を愛するとはいえません。例えるなら、美しい木を育てようとして培養しその日を覆い雲を凌ぐのを待つようなものです。根を断ち切れば、害とならないことは無いでしょう」