彭汝礪(ほう じょれい)
慶暦元年(1041)〜紹聖元年(1094)
字・器資
饒州鄱陽の人
治平二年の状元



彭汝礪は言職にあって、唐虞三代のことでなければ論じなかった。
はじめての謁見では十項目をたてまつった。
一は大本を正すこと、二は人の任用、三は法令を守ること。四は財政、五は民政、六は救済、七は事業を興すこと、八は新法について、九は青描法と免役法、十は塩の専売について。
得失利病を指摘し、人が言いにくいものばかりであった。
また言った。
「市易使である呂郭問は税収を増やすことばかり考えているから罷免すべきで、兪充は宦官の王中正に諂い、妻を挨拶にやるぐらいだから検正中書五房公事に叙任してはいけない」
神宗は兪充の任命することをとりやめた。
彭汝礪の言葉に説得されるのはこのようであった。
彭汝礪は帝の聡明さを広めることでなければ肯んじえず詔を奉じなかった。
皇室では金銭で嫁を買い、娼家の女を娶る者までいた。
彭汝礪は次のように上奏してやめさせた。
「血縁が薄いといっても皇族はすべて宗室の子孫であります。金があるからといっても庶民が手に入れられる地位ではありません。願わくばあらためて婚姻の法律を定められんことを」
王中正、李憲が陜西で軍事行動をした。
彭汝礪は宦官が軍事に関与してはならないと言い、そして漢と唐の過乱に言及した。
神宗ははじめ不機嫌で彭汝礪を詰問した。
彭汝礪は拱立して動かなかった。
暇を窺ってまた言った。
帝はついに態度を改めた。
この日朝廷で成り行きを見守っていた人達は皆、彭汝礪の身を案じていたが、皆はやがて歎服した。