包拯(ほう じょう) 
咸平二年(999)〜嘉祐七年(1062)
字・希仁
謚・孝粛
合肥の人
後世、包公、包青天の名で呼ばれ中華圏では知らぬものがおらず關羽や諸葛亮に匹敵する人気を誇る。
日本の大岡裁きは彼の話を下敷きにしているものも多い。



包拯が天長県の知事だったときのこと。
盗人が牛の舌を割いたという訴えがあった。
包拯は牛を殺して売らせた。
すると勝手に牛を殺したと告発してきたものがあった。
包拯は言った。
「君はどうして某の家の舌を割き、また殺したことを告げるんだ」
盗人は驚き恐れ入った。
端州の知事になったときのこと。
州では毎年硯を貢物として納めていた。
前任者は規定量の数十倍の硯を作らせ上層部の人間に贈っていた。
包拯は製作者に命じ規定数のみを作らせた。
包拯は任期が終わっても一つも持ち帰らなかった。



王珪が話していた。
包拯は盧州の知事だった。
盧州は彼の郷里である。
包拯の親類縁者の多くはこの機会にと、官府を騒がした。
母方の親類が犯罪を犯す者がいた。
包拯はこれを容赦なく鞭打った。
それから親類達は鳴りを潜めた。
包拯は科挙に合格すると、親が年老いているのを理由に十年も官途に就かず、人々はその孝行ぶりを称えた。
開封府の知事となると剛厳として私情を挟むことがなかった。
京師では「関節(わいろ)の通用しない閻魔の包老」と彼を呼び、官吏、民衆を問わず畏れ敬った。
上司や同僚に意見を述べるときは、好んでやり込め、相手を辱めたが、、相手の言うことが理に適っている場合には、すんなりと従った。
剛直でありながら固執しない、これは他人に出来ないところである。