韓絳(かん こう)
大中祥符五年(1012)〜元祐三年(1088)
字・子華
謚・献粛
慶暦二年の進士
韓億の子



韓絳は開封の推官だった。
冷清という男が「私は母が宮中で懐妊して民間で生んだ子である」と言って、皇太子と自称した。
都の人々は疑ってみていたが、吏が捕らえて訊問したが真相はわからなかった。
府の官員の中には態度を改めて冷清を礼遇する者まで出てきた。
事実であるという確証も無いまま近くの郡においておいた。
韓絳は「成人すれば大事(とんでもないこと)を為すかもしれません」と切実に上奏した。
冷清は誅殺された。