孔道輔(こう どうほ) 
雍熙三年(986)〜宝元二年(1039)
字・原魯
曲阜の人
孔子四十五世の孫



孔道輔は天子(仁宗)に仕え、天聖から宝元の間、剛毅な直言の士としてその名は天下に聞こえていた。
知諫院だった時のこと、明粛太后が垂簾政事をやめて政権を天子に返還するよう上奏し、枢密使の曹利用を告訴し、御薬(宦官)の羅崇勲の罪状を並べ立てた。
当時、羅崇勲が権力を握って士大夫と取引をなし、曹利用は傲岸不遜でまわりから憚られていた。
御史中丞だった頃、郭皇后が廃された。
孔道輔は諫官と御史達を引きつれ宮門で抗議し、謁見を請うたが帝は許さなかった。
それでも、あくまで抵抗し、処罰されるまでやめなかった。
孔道輔が仕える姿勢はおよそこういった感じだった。
そのため、その名は天下に聞こえ、士大夫の多くが彼が大臣の位につけなかったのを、天下のために惜しんだのである。