寇準(こう じゅん) 
建隆二年(961)〜天聖元年(1023)
字・平仲
謚・忠愍
丞相・莱國公
華州の人
太平興国四年の進士。
対遼では徹底抗戦を主張し真宗の親征を実現し劣勢を巻き返す。



寇準はある懸案に対し、反対の上奏をした。
太宗は怒って禁中へ入ろうとした。
すると寇準は手で太宗の衣を引いて、太宗を再び玉座に戻らせ、その事を決めさせてから退廷した。
太宗はこれを嘉して、言った。
「朕が寇準を得たのは、唐の文皇(太宗・李世民)が魏鄭公(魏徴)を得たのと同じである」



真宗が上奏文を読むとそこには契丹(遼の聖帝と蕭太后)が二十万を率いて澶淵に侵攻してきたという内容だった。
真宗が寇準に対策を諮ると次のように言った。
「陛下は解決したいとお思いますか、それとも解決したくないとお思いでしょか」
「国が危ないのは言うまでも無い。早く処置したい。このまま放置することはできない」
「陛下、解決したいのであれば五日以内に澶淵に行っていただきます」
真宗は黙ってしまい、群臣の中には恐れて退出しようとする者までいた。
すると寇準は一喝した。
「士安(時の丞相畢士安)ら止まれ。駕(天子の乗るかご)に従って北進せよ」
こうして出発したが、真宗は進むたびに恐ろしくなり、行軍が困難だからと引き返そうとした。
すると寇準は「澶淵に入城しさせすれば、謁見する間もなく敵は去ります。ここで引き返してはなりません」と言って無理やり北進させた。
そして六軍、百司は追いかけて行った。



寇準は皇帝(真宗)に従って澶淵にいた。
王欽若は密かに金陵へ、陳堯叟は蜀に(それぞれの故郷)に行幸されるように請願した(危険な前線から逃げようとした)。
真宗は寇準にどうすべきか下問した。
そのとき、王欽若と陳堯叟が側にいた。
寇準は二人が進言したと察したが知らないふりをして言った。
「誰が陛下にそのような策を画したのでしょうか。(進言者を)斬るべきです。今、敵は意気盛んです。陛下は衆を鼓舞し前進して敵を防ぎ、国を守らなければなりません。それなのに宗廟を委棄して遠い楚蜀へ逃げるとは何事ですか。さらに現在の情勢では陛下が一歩でも向きを変えられれば我が軍は瓦解し衆は雲散霧消しましょう。敵にそこを衝かれれば楚蜀に行き着くことも適いませんぞ」
真宗は納得して遷ることをやめた。
二人はこれにより寇準を怨んだ。



澶淵の戦いは膠着状態となり、和平交渉に入った。
寇準は次のように言っていた。
「契丹は国をあげて侵入して、中国にはいること千余里にもなる。帰ろうとすれば十日はかからないと漢の地を出ることは出来ない。郡邑は城壁を固め野を清めて待ちます。そうすれば、契丹は人馬とも飢え、百万の兵は戦うことなく死に絶えるだろう。契丹がこのように苦しむのは明白だ。しかし押さえを緩くすれば契丹は敢えて臣と称するはずも無く、幽州を必ず取るだろう」
そして講和の内容を決める時、寇準は真宗に言った。
「もし私の策を用いれば数百年は無事でしょう。用いなければ四、五十年後に戎心(中国を侵略したいという思い)が発生しないか恐れます」
「朕は、民衆の苦しみを考えると忍びない。だから和議を結ぼうと思う。四、五十年後、どうして防ぐことの出来る者がいないと言えるだろうか」
そして講和はなった。(注:後に真宗は後悔し盟約を結んだ責任を寇準に押し付ける)



大中祥符元年正月、宮中の承天門に天書(天からの預言書)が降ってきたので、(めでたいから)天子(真宗)は改元をおこなった。
その年の六月に泰山にまた降ってきたので、十月に泰山で封禅の儀を行った。
二年後、汾陰に后土を祀った。
天子は天書を鄭重に扱い、玉輅にのせて、天書の通る道を天子は避けるようにした。
また、神が延恩殿に降臨し、天尊と自称した。
帝は自ら見に行き、さらに祭事にはげむようになった。
天書が最初に降ってきたときは昭応宮を造営し、その後、会霊、景霊という副殿を建造し、老子を亳州で祀った。
天下では無節操に神事が行われた。
この時、寇準は中央を離れ外官となった。
天書を信じなかったので、帝は寇準をますます疎まれた。
最後の京兆(長安)の知事だった時、都監の朱能がまたもや天書を献上した。
帝は王旦にこのことを問うた。
王旦は答えた。
「最初から天書を信じなかったのは寇準です。今回、天書は寇準の所に降ってきました。寇準に献上させれば、万民はおおいに服し、疑っている者も信じざるを得ないでしょう」
帝は王旦の言う通りにすることにした。
使いをやって寇準に逼った。
朱能は以前から宦官の周懐政についていて、寇準の婿である王曙は中央で周懐政と中が良かったので、寇準に朱能と同じことをするように勧めた。
寇準は最初拒否していたが、王曙が強く要請したので折れた。
そして中書侍郎・平章事に返り咲いた。
天禧三年のことである。



寇準は士を好み善を楽しみ、推薦を倦むことはなかった。
种放、丁謂も皆、彼の推薦にあずかっている。
だが、親しいものへ語るには、「丁公はまことに奇才というべき人物だが、重任に堪える器ではないね」と言っていた。
寇準が丞相となり、丁謂が参知政事となった。
二人は都堂で会食し、羹(スープ)が寇準の鬚を濡らした。
丁謂が立ち上がってこれを拭いた。
すると寇準は色を正して、「執政の身分でありながら、御自ら宰相の鬚を拭われるのですな」と皮肉った。
丁謂は面子を潰された。
寇準は正しく曲がったことが嫌いであったため、媚び諂う者へ備えなかったので結局陥れられることになった。



ケ州の花蝋燭の名は天下に鳴り響き、京師でもつくることは出来なかった。
これは寇準の蝋燭だと伝えられている。
寇準はかつてケ州の知事だった。
若い頃から富貴だったので油燈をともさなかった。
夜宴を好み痛飲して、寝室でも夜明けまで蝋燭を燃やしていた。
転任のたびに、人が官舎にやってきて、厠室の中にまで蝋が垂れたあとがあり、ところどころそれが積もってすらいた。
一方、杜衍は人となりは清廉で倹約家であった。
官途についてから一度たりとも公用の蝋燭すら使ったことが無かった。
一炷の油燈が消えかけていても、客と清談し続けた。
二人とも名臣であるが、奢侈と倹約が同じではないのはこういった感じである。
杜衍が終わりを全うし、寇準が晩年に南遷の禍に遭い、流されたまま亡くなった。
この不幸を戒めとするべきであろう。



張詠は蜀の太守だった。
寇準に宰相就任を拝命したと聞いて言った。
「寇準の宰相だ」といった後、「人々に福はないだろう」とも言った。
門下の李畋はいぶかり理由を問うた。
「人が千言を費やしても足りないものを寇準は一言で済ませる。しかし、仕官は早く、昇進もまた早く、時間が無いから学ぶことが出来ない」
と張詠は答えた。
張詠と寇準は民間人だったころから交友があり、寇準が張詠に兄事し、張詠は寇準をやり込め容赦せず、偉くなっても改めなかった。
寇準が岐、張詠が蜀に赴任することになり共にいることが出来なくなった。
別れようとするとき、張詠は寇準をかえりみて言った。
「霍光伝を読んだことがあるか」
「まだ読んだことがないです」
それ以上の言葉は無かった。
寇準は帰ってから霍光伝を読んで、不學無術というところに至って、笑って言った。
「張公は私にこれが言いたかったのか」