王安石(おう あんせき)
天禧五年(1021)〜元祐元年(1086)
字・介甫、
号・半山
謚・文公
荊國公
新法を推し進めた。



王安石は参知政事であった。
帝は王安石に言った。
「誰も君の事をわかっていない。君は経術を知っているが世情には疎いと思っている」
「経術は世情をただすためにあります。ただ後世の者の学説はだいたいが凡人のものです。ですから世情は皆、経術が世情に役に立たないと思っているのです」
「では君は何を第一とするのか」
「風俗を変え法律を定めるのが第一です」
そして青苗、市易、坊場、保甲、保馬、導洛、免役などの政策が打ち出され、制置三司条例司を設置し、枢密院の長である陳升之とその責任者となった。
御史中丞の呂誨が十項目の理由を上げ王安石反対を論じると、王安石は辞任を求めた。
そのため帝は呂誨を左遷させた。
韓gも青苗法に対し上疏して各地の堤挙官を辞めさせることを願った。
上奏が届くと、王安石は病と称して分司を求めたが帝は許さなかった。
王安石は参内し次のように述べた。
「陛下は先王の正道によって天下の世俗を変えようとなさっておられます。だから天下の世俗と天秤にかけられているようなものです。世俗が強ければ人々はそちらに靡き、陛下が強ければこちら靡きます。はかりは揺れ動き、千鈞の物といえども、分銅の加減で動きます。今、姦人が先王の正道をやぶり、陛下のやろうとしているところを阻もうとすれば、陛下と世俗が均衡している今、僅かな重さを世俗に加えれば天下と言う大きなはかりは世俗に傾きましょう、これが紛糾の原因に他なりません」
帝は納得し、王安石は政務を執りに戻った。



王安石が知制誥だった時、呉夫人(王安石の正妻)は王安石のために妾を買った。
王安石を彼女を見て言った。
「なんのための女だね」
「身の回りの世話をいたします」
「どうして妾になったのか」
「私の夫は兵糧の運搬をしていたのですが舟が沈没してしまいました。家産はことごとく没収されましたがそれでも足りず、だから私を売って償ったのです」
これを聞いた王安石は愀然として言った。
「妻はいくらで君を買ったのかね」
「九十十万です」
王安石は妾の元夫を呼んで、元通り夫婦にさせてやり、銭を下賜した。



王安石に晩年に鍾山書院で多くの福建子の三字を書いていた。
呂恵卿を悔恨するのは、彼に陥れられたことを恨み、彼によって誤ったことを悔やんでいる。
山を歩くたびに恍惚として独り言を言いそれは狂者のようだった。
田昼が王安石が甥の王防にこう言ったことを語った。
「私は昔交友が好きで付き合いも多かったが、皆国政に携わってからそれは絶えた。今は閑居し手紙を作って様子を聞きたいものだ」
王防はすぐに紙と筆を机の上に用意した。
王安石は手紙を書こうとしたが、長嘆してやめた。
恥ずるところがあるようであった。
王安石が罹病すると、(弟の)王安礼が見舞いに司馬光の宰相就任が載っている官報をもってやってきた。
それを見た王安石は「司馬十二が宰相となったか」と悵然と言った。
王安石は日録というものを王防に託したが、危篤となると焼き捨てさせた。
王防は他の書物を焼いて日録は残した。
後に朝廷は蔡抃の要請で、江寧府の王防の家に使者をやり、日録を献上させた。
蔡抃は史書をつくろうとして、日録をもとに事実を曲げ姦悪に嘘を書き、元祐年間に書かれた神宗正史を改変してしまった。
王安石ははじめて宰相となると皇帝の師臣を自任し、神宗の待遇の礼も厚かった。
再び宰相となると帝はほとんど喜ばず、議論の主張も異なった。
だから日録の後半を蔡抃は秘匿し哲宗を欺いた。
現在では七十余巻しか残ってない。
陳權が言う「個人の記録を尊び、宗廟をないがしろにするもの」である。
王安石が亡くなると、司馬光は病気療養中であり、呂公著に次のような手紙を送った。
「王安石は他に欠点は無い。ただ執拗な性格なだけである。手厚く葬るように」
司馬光の成徳はこのようであった。