王堯臣(おう ぎょうしん) 
咸平六年(1003)〜嘉祐三年(1058)
字・伯庸
謚・文忠
應天府虞城の人
天聖五年の状元



朝廷が李元昊の罪をただそうと、軍を興してから支出は増大の一途をたどった。
これまでの三司使(財務大臣)となった者は、税率を急騰させた。
さらに内倉(天子の個人資産)から借金したり、富裕層から銭を出させ、果物や野菜にも課税したが、それでも全然足らなかった。
王堯臣は任命されると次のように尋ねた。
「現在、国も民も疲弊しております。陛下は私にどのようにさせていただけるのでしょうや」
「君の好きなようにしてよい」
そこで王堯臣は財政の収支を分析して言った。
「これが本であれは末だ」
そして緊急性の高いものから、根本的に問題ある者を退け、小利を得ても大体を損なっている者を退け、実施する項目と法規を組み合わせた。
副官、官吏で役に立たない者十五人を罷免して、あらためて賢明な人物を薦用した。
一年ほどで増税しなくともやっていけるようになり、翌年には余剰金から内倉から借りていた数百万の返済を済ませ、さらにその翌年には余剰金を関係官庁にまわすことが出来それは数千万にも及び、故郷を棄て棄民となっていた者達が元の生業に戻った。