王素(おう そ)
景徳七年(1007)〜熙寧五年(1073)
字・仲儀
謚・懿敏
王旦の末子
あだ名は「独撃鶻」



はじめ、王素と歐陽修は帝の前で富弼を誉めた。
富弼が入閣して宰相となったのは王素の力が大きい。
富弼が宰相となって王素は開封府の知事となり、富弼が自分(王素)を引き立てて入閣させてくれることを願った。
しかしそうはならなかったので、富弼を貶し始めた。
外に出ることを望み、定州の知事となり、さらに益州の知事も勤め、帰ってきてまた開封府の知事となった。
いよいよ鬱々として、煩雑な仕事に倦厭し、府の仕事の多くは放ったらかしにして、しばしば宴会に出かけた。
王素は驕侈で、二州では賄賂をとることで知られ、節操が無く、士大夫は彼を賤しんだ。
開封府に散従官の馬千、馬清がいた。
よく盗賊を取り締まり、功績を重ねて班行となって、府の人々は彼等を頼りにしていた。
ある人が王素に言った。
「二馬(馬千、馬清)は外では威張り悪いことばかりしている」
王素は上奏して二人を遠くへ左遷させた。
そのせいで京師では盗賊が発生し、捕吏が向かうが捕まえることが出来なかった。
台官が王素の不才を言い募り、王素自身も外に出たがったので、朝廷は王素を罷免した。