王曙(おう しょ) 
乾徳元年(963)〜景祐元年(1034)
字・晦叔
謚・文康
洛陽の人
淳化三年の進士
寇準の婿


玉清昭応宮で火災があった。
守衛の任に当たっていた者は全員御史台の獄に繋がれた。
王曙は上奏した。
「昔、魯の桓公と僖公の廟が焼けました。そのとき孔子は(桓公・僖公はかなり昔の人なので)近しい人はおらず、取り壊すべきものだと言いました。遼東の高廟(劉邦の廟)と高園の便殿が焼けました。そのとき董仲舒は高廟は地方にあるべきではなく、便殿は陵墓の側にあるべきではない。近くにあるから火災が起きるのだと言いました。魏の崇華殿が炎上しました。高堂隆は豪壮な宮殿に対する天の戒めです。修復してはなりませんと言ったが、文帝(曹丕 実際には明帝 おそらく王曙の勘違い)は聞き入れず翌年また炎上した。今の宮殿は聖人の教えに背いています。火災は天の警告でございます。願わくば宮殿を取り壊し、もろもろの祭祀を廃止し、天変にこたえられんことを」
仁宗と曹太后は感悟し守衛の罪を軽減し詔を発し修繕しないことを天下に示した。
王曙は威厳があってもったいぶらず大臣の風格があった。
かつて言った。
「人臣が倹約しないのを憂える。最近は己の分をわきまえない邸宅が多く、衣服や玩(アクセサリー)も奢侈で下僕妻妾も数え切れないほどだ。適当に制限すべきである」
貴顕の位にのぼるとつとめて自らを抑え、質素な食事と住居で満足していた。