王旦(おう たん) 
顕徳四年(957)〜天禧元年(1017)
字・子明
謚・文正
太尉
大名府莘の人
太平興國五年の進士
幼き頃に「宰相となって富を築く」と言われた。
真宗の治世の半分(十二年)も宰相を務める。



ある事案を中書省が枢密院に送付したが、書式に不備があった。
寇準は枢密院にいたが、このことを帝に知らせたために、帝は王旦を叱責した。
王旦は落度を認め謝罪した。
中書省の役人達は皆処罰を受けた。
ひと月たたぬうちに、枢密院で事案を中書省へ送付したが、旧詔に違反していた。
中書省の役人はこれを見つけて大喜びで王旦に差し出した。
王旦は黙って枢密院へ返送させた。
吏人は寇準にいきさつを話した。
寇準は大いに恥じ入り、翌日王旦に会って言った。
「貴方はどうやってその大きな度量を身につけられたのか」
王旦は何も言わなかった。



王旦が寇準を推薦して宰相にした。
寇準はしばしばし、帝の前で王旦を謗り、王旦は寇準の長所を称揚した。
ある日、帝は王旦に言った。
「卿は寇準の美点を称揚するが、寇準は卿の悪を談ずるだけだ」
「理由はまさにその通りです。私は宰相の位に長いこといて、失敗も多いです。寇準は陛下に対して隠し事をせず、その忠心は直です。だから私は寇準を重んじるのです」
帝はますます王旦を賢だと思った。



王曾、張知白、陳彭年は政事に参与していた。
そろって王旦に言った。
「上奏したものの中に、陛下が御覧にならず、貴方が勅許を得たとして決裁したものがあります。良くないことだと騒ぎたてる人間が出てくるのを恐れます」
王旦は頭を下げるだけであった。
ある日、上奏に際して王旦が下がった後も王曾等は残った。
帝は驚いて言った。
「どうして王旦と一緒に来ないのか」
王曾等は先の話をした。
「王旦は長年、朕の左右におる。だから朕は王旦が毛一本も私心を持ってないことを知っている。泰山を奉った後、朕は小事は一存でやるように言った。卿等は謹んでこれを奉ずるように」
王曾等は退廷して恥じ入り謝った。
王旦は言った。
「さきにお言葉を頂いていたが、私から上旨を得たとは言うことは出来なかった。これからは、改めて諸君達に力になってもらいたい」



ある日、趙徳明(西夏から帰順)が「民が飢えているので、糧米百万斛を頂きたい」と言ってきた。
真宗が群臣に諮ると、「帰順を誓ったからそのままにしておいたのに、図に乗ってこういう要求をするのですから、叱責の詔勅を下すべきです」という意見が大勢を占めた。
真宗が王旦に同じことを問うと王旦は次のように言った。
「百万斛を開封に集め、趙徳明自身に取りに来させれば良いでしょう」
これを聞いた真宗は大いに喜んだ。(趙徳明は結局取りに来なかった)



真宗の時、王旦は宰相となった。
賓客が座に満ちるほどであったが、あえて私的な願いをする者はいなかった。
客が帰ると、王旦は語るに足りる者と以前から名前を聞いていた者について、吏人を使ってその居場所を尋ねさせた。
数ヶ月の後、召して時間をかけて語り合った。
四方(各地)の問題を尋ねたり、提案を文章にして差し出させた。
優れた才能と見て取ると、その名を書き留めておいた。
他日、その人がまた訪ねてきても、謝絶して会うことは無かった。
人事異動があるごとに、王旦は密かに三、四人の名前を書き上げ帝に渡しておいた。
真宗は用いようとする者にはその名前上に点を打っていた。
同僚達は誰もこのことを知らなかった。
翌日、中書省内で人事ついて議論になり、同僚達が任命したい者を争った。
王旦が「だれそれを用いるべし」と言えば、同僚達は反対するが、上奏するに及び、裁可を得ないことは無かった。
同僚達は悔しがったが、どうしようもなかった。
丁謂はしばしば王旦を謗ったが、帝はますます信用を厚くした。