歐陽修(おうよう しゅう)
景徳四年(1007)〜熙寧五年(1072)
字・永叔
号・醉翁、六一居士
諡・文忠
吉州廬陵の人
天聖八年の進士



嘉祐三年、龍図閣学士を加えられ開封の知事となった。
前任者の包拯は威厳を持って部下を統御し、その名は轟いていた。
歐陽修は簡単な理に従い特別の名誉を求めなかった。
ところが包拯の政事を持ち出し歐陽修を励ます者がいた。
歐陽修は言った。
「人間の才能や性格は一つではない。長所をつかえばやっていけるが、短所を無理に使えば必ず失敗するだろう。私は私の長所に従っているだけだよ」
聞いた者は納得して称賛した。



歐陽修は自分で言っていた。
「道を学ぶこと三十年、得る所の者は、平生、怨悪無きのみ」
歐陽修ははじめ范仲淹の事(派閥争いで范仲淹側だったこと)で宰相の呂夷簡により罪を得て、遠くの峡へ左遷させられ流落した。
数年して、呂夷簡が宰相を罷めると、歐陽修は復職した。
後に范仲淹のために神道碑を作って、李元昊が叛いた時に范仲淹が抜擢されたことをしるし、呂夷簡が賢で私憾を棄てて国家のために力を尽くしたことを称えた。
范仲淹の子である范純仁はそうではないとして、石に刻む時この一節を削って言った。
「我が父は死ぬ寸前まで、仇を赦さなかった」
歐陽修は嘆息して言った。
「私も呂夷簡によって罪に落とされた者だ。ただ、その言葉は公平だった。後世の評価に任せることにしよう」
私(朱熹)は聞いたことがある。
范仲淹が平生、次のように言っていたことを。
「一人に怨悪無し」と。
そして呂夷簡に対する仇を許した書は范仲淹集の中にある。
父自ら「人に怨悪無し」と言っていたのにその子は仇をゆるさなかった。
父子の性格が違いすぎているのはこのようである。
本当なのであろうな、堯朱の善悪の違いも。



歐陽修が潁州の知事だった時のこと。
呂夷簡の子である呂公著は通判だった。
人となりに賢行があったが当時の人達は知らなかった。
歐陽修が朝廷に復帰すると、彼を推薦したので抜擢された。