王存(おう ぞん)
天聖元年(1023)〜建中靖国元年(1101)
字・正仲
潤州丹陽の人
慶暦六年の進士



王存は寛厚な性格で立派な容貌を持つ偉丈夫だった。
日頃は物静かで平衡を失うようなことをしなかったが、守るべき事については断固として譲らなかった。
議論は平恕で向背することが無かった。
司馬光がかつて言っていた。
「一万もの馬が一緒に走っていて、途中で足を止めることが出来るのは王存だけであろう」
束髪(成人)して官途についてから大耋(七十歳)の老齢にいたるまで五代の皇帝に仕え、その心は一つであり、政変にも変わる事はなかった。
人との交際は長くなればなるほど親しくなり、孤児、流落した者を視るとその恩意は篤かった。
幼い頃は潁川の陳浚に師事した。
陳浚が亡くなり、子供がいなかったので、王存は弟の子を探し出して官吏にしてその家の面倒を最後まで見てやった。
自身は倹約に努めたが、賓客には厚くもてなすことを喜んだ。
揚州と潤州は河を跨ぐだけの距離である。
王存が揚州太守の時、故相の例をもって、実家に帰り祖先の墓に詣でることが出来た。
そして五十万銭を寄付し、牛酒をそろえて父老数百人を集めて親しく飲んだ。
皆喜び酔い、美談として語り継がれた。
いつも近頃の学士は富貴の身となって先祖の祭祀をするのに庶人のやり方をおこなっているのを悼んでいた。
隠居して邸を築くと宗廟を古法に従って設置した。
王存には兄が一人いたが早くに亡くなった。
兄嫁に仕え、その子を我が子のように慈しんだ。
そしてその孫二人を官途につかせた。
退官して丹陽にいて十年経ち、周りに少しの迷惑をかけることも無く、亡くなると郷里の人達は哭泣し、皆哀しんだ。
各地の有識者は朝廷のためにこれを惜しんだ。