呂夷簡(りょ いかん) 
太平興国元年(979)〜慶暦四年(1044)
字・担夫
謚・文靖
寿州の人
咸平三年の進士
呂蒙正の甥



景祐年間の末、西夏と戦争になり、大将の劉平が戦死した。
「朝廷が宦官に軍を監督させ、司令官としての権限を掣肘されたがために劉平は負けたのだ」
という議論がなされ監軍だった黄徳和を誅殺した。
ある人が各軍の監軍を廃止しようという意見を出した。
仁宗が呂夷簡に下問したところ、呂夷簡は「どうしても罷めさせる必要はありません。謹厚な選ばれるとよろしいでしょう」と答えた。
ならばと仁宗は呂夷簡に選ぶよう言えば、呂夷簡は次のように言った。
「私は宰相の任にあります。宦官との付き合いは無く彼等の賢否を知りようがございませぬ。願わくば都知押班(宦官の長)に命じて推薦させ、不適格だった場合は同罪となさればよろしいでしょう」
仁宗はこのとおりにした。
翌日、都知は叩頭してすべての監軍の宦官の罷免を願った。
士大夫は呂夷簡の謀に感心し喜んだ。