呂誨(りょ かい)
大中祥符七年(1014)〜熙寧四年(1071)
字・獻可
開封の人
呂端の孫



煕寧年間、王安石が参知政事を拝命し神宗は政務に熱心であった。
ある日、紫宸殿で早朝から朝見し、ニ府の上奏は頗る長かった。
日が傾き、特例として登対の官を後殿に隔てて、帝が更衣して玉座に戻り、次を引見した。
この時、呂誨は御史中丞に任命されており、崇政殿で謁見しようとし、翰林学士だった司馬光は邇英殿で侍講していたので、待命のために資善堂に向かっていた。
途中で二人は出会い、並んで向かった。
司馬光が問うた。
「今日、謁見を請うたのは何を言いたいからなのですか」
「袖の中の弾劾文は新任の参知政事へ向けたものです」
「介甫(王安石の字)は文学、行動と徳義に優れた人物で彼に命が下った日、皆は良い人を得たと喜んだ。それなのにどうしてそんなものを上奏するのかね」
「貴方ほどの人までもがそんなことを言うのか。王安石には評判も良く、帝の意に適っているが、偏見に固執し、世情に通じず、簡単に信じて撤回せず、己に追従する人間を喜ぶ。その言うところは美しいが、実用すれば粗だらけ。侍従であればよろしいでしょうが、宰相府に置けば天下は必ずその弊害をうけることになりましょう」
「貴方とは前から親交があります。胸襟を開いて話し合っています。、今話したことは確たる証拠のある話ではなく、粗忽に近いかと。別の案件があるならそちらを先に進呈されて、このことはしばらく様子を見て考え直されればいかがか」
「帝が新しく任命したばかりで任期は長い。朝夕、謀議に預かれるのは二,三の執政だけだ。人事を誤れば国を滅ぼすこととなる。これは心腹の病であり一刻の猶予もありません」
話し終わるまでに閤門の官吏が声をあげて促したので走っていった。
司馬光は(太子への)講義を終えて退き、玉堂に黙って座り終日このことについて考えたが納得できなかった。
しばらくすると呂誨の上奏の内容が漏れ伝わり、それを聞いた人間が増えてくると、内容が行き過ぎではないかという話になった。
間もなく中書省が三司条例司を設置され、平素から王安石に阿諛追従していた者達が多く登用されその属僚となり、毎日集まっては議論をしていた。
天下を経綸するのを自分達の任務と自任し、はじめて祖法の変更を行い、聚歛に専念し条例を作って各地に公布し、適当に周礼を引用して誅剥の実態を隠した。
輔弼(宰相)、大臣が異議を申し立てても聞かず、台諫、従官が力争したが、権能を奪うことが出来なかった。
州県監司奉行たちがすこしでも自分達の意に沿わないと左遷させられた。
ここにいたって、民衆は騒然とし、先日呂誨の上奏文について疑った者たちは、はじめて恥じ入って呂誨に及ばないと感服した。
しかし、呂誨はケ州の知事に左遷された。