呂蒙正(りょ もうせい) 
天福十一年(946)〜大中祥符三年(1011)
字・聖功
謚・文穆
洛陽の人
太平興国二年の状元(科挙首席合格)
甥に呂夷簡がいる。
富弼を見出した。



淳化三年、太宗は宰相(呂蒙正)に言った。
「国を治める道は寛猛の間をとるべきだ。寛であれば政令は守られず、猛であれば民は手足を措くことも出来ない。天下を保つ者はこれを慎まなければならない」
呂蒙正は言った。
「老子は言いました。大国を治むるは小鮮を煮るが如しと。魚を必要以上にさわれば、崩れてしまいます。近日、内外から皆封書えお奉り、制度を更めるよう求める者が甚だおおいです。陛下がはやく新しい制度の確立をすることを望みます」
帝は言った。
「朕は人の発言を封じたいと思わない。愚夫の言葉に至るまで賢者は聞くもので、これは古の典である」
趙昌言は言った。
「今、朝廷に何事もなく、辺境は寧謐です。まさに今はやるべき時であります」
帝は喜んで言った。
「朕は終日、卿とこのことを論じている。どうして天下が治まらないことを愁うだろうか。いやしくも天下の民に接する官吏が、皆、このようであれば刑は清く訴訟はやむだろう」



帝は、卞河の輦運卒に、ひそかに官物を質入したり売却したりする者がいると聞いて、侍臣にむかって言った。
「旨い儲け話は鼠の穴のようなものだ。どうして防ぐ事が出来るだろうか。ただ中でも酷い者を除けば良い。船頭どもがすこしぐらい横流ししたとしても、公を妨げることがないようであれば必ずしも糾問しなくとも良い。ねがわくば官物の入りが損折に至る事がなければ良いのだ」
呂蒙正は言った。
「水至って清ければ魚なく、人至って察なれば徒なし。小人の真と嘘などは君子はすべて見抜いております。大度でもって受け入れれば万事旨く行きます。曹参が獄市(裁判)を擾さなかったのは善悪を兼ねている場所であったからです。これを窮めるようになると姦悪な者どもの身の置き所がありません。ですからいましめて擾してはなりません。陛下の仰る事はまさに黄老の道と合っております」



呂蒙正は人の過失を憶えるのを嫌っていた。
はじめて参知政事となって朝堂へ入っていった。
その時ある朝子(低ランクの役人)が簾の中から指差して言った。
「あんな小子まで参政とはね」
呂蒙正は聞こえないふりをして通り過ぎた。
しかし同僚は激怒し、言った人間の官位姓名を問いただそうと詰寄った。
呂蒙正は慌ててそれをやめさせた。
同僚は朝見が済んでも同僚は怒りが収まらず、問詰めなかったことを悔やんだ。
呂蒙正は言った。
「もし一度その名前を聞けば一生忘れることが出来ないだろう。知らないにこしたことは無い。それに聞かないでおいて何の損になるというのだ」
時に皆その度量に感服した。



ある人が古い鑑を持っていて、「二百里を照らす」と自慢していた。
その人は呂蒙正の弟を通じて献上して知遇を得ようとした。
弟が兄にこの話を持っていくと、呂蒙正は笑って言った。
「私の顔は桃子(皿)よりも小さい。どうして二百里も照らす鑑が必要なんだね」
弟は二度とこの手の話を持ってくることは無かった。
この話を聞いた人が「李靖(唐の名将)に勝るとも劣らない」と言った。



呂蒙正はあるとき子供達に聞いた。
「私は宰相となったが、世間ではどう見ているのかね」
「大人の風格で四方に何事も無く蛮夷もなつき素晴らしい。ただ、決断力に乏しく多くの同僚と論争するところとなるという評判です」
「私は本当に無能である。ただ一つだけ優れたところがある。それは人を使うことに長けている。これが本当の宰相の仕事なのだよ」
呂蒙正は冊子を持ち歩き四方に転入出して会いに来る人達に必ず人材について尋ねる。
客が帰るとすぐに冊子に書き込み分類しておく。
一人の人間を複数が賞賛すれば必ず賢人である。
朝廷が賢人を求めれば、袋の中から(冊子を)取り出す。
だから呂蒙正は宰相となり、文武百官がその職責を全うしたしたのはこのためである。



呂蒙正は隠退して病床にあった。
真宗は見舞いにやって来て言った。
「卿の子供達では誰を用いれば良いだろうか」
「私の子供達は皆、豚か犬のようなものなので用いてはなりません。ただ甥に夷簡というのがいて、潁州の推官をやっています。宰相の器です」
真宗はこの言葉をしるしておいて、後に遂に呂夷簡を宰相にした。