劉恕(りゅう じょ)
明道元年(1032)〜元豊元年(1078)
字・道原または道源
筠州高安の人
皇祐元年の進士
資治通鑑編纂者の一人



王安石は劉恕と旧交があり、その才能を深く愛していた。
煕寧年間、王安石が政治に参画すると、劉恕を三司の条例を修めさせようとした。
劉恕は金や穀物については疎いからと固辞して言った。
「天子は貴方に政事をお任せになっているのだから、堯、舜の道を広め、明主をたすけるべきで、財政を先としてはなりません」
王安石は聞かなかったが怒りもしなかった。
劉恕は王安石に会うたびに誠意を尽くして献策した。
呂誨が罪を得てケ州の知事になると、劉恕は王安石に会いに行って言った。
「貴方が何か言われるのは考えが足りないからです」
そして新法のうち、民衆に合わない条項を陳列し、「これらを元に戻せば議論は自然にやむでしょう」と言った。
王安石は激怒してついに絶交した。
間もなく司馬光が永興軍の知事となって中央から離れた。
劉恕は言った。
「私は正道をもって執政にさからった。今、官長もまた去ってしまった。私はどうして知らない顔できようか。また、私の親は老年であるのだから長いこと京師に留まっているわけにはいかない」
上奏し監南康軍酒になりたいと願い、そうなった。