劉敞(りゅう しょう)
天禧三年(1019)〜熙寧元年(1068)
字・原父
臨江新喻の人
慶暦六年の進士
歐陽修が師事するほどの博学
弟の劉攽は資治通鑑の漢代を作成



使者を契丹に送った。
劉敞は前々から契丹の山川、道程を知っていた。
契丹人は古北口から千余里も迂回して柳河へ向かおうとした。
「松亭から柳河に向かうには、真っ直ぐで近い、数日で中京に着く。なんでそんな遠回りをするのかね」
契丹人はいつも必要以上に迂回し、宋の使者に国土の広さを誇ろうとしていた。
さらに「どうせこちらを見下してあらかじめ知識をたくわておく奴なんかいないだろう」と思っていた。
だから劉敞の問いかけに顔を見合わせて驚き、恥ずかしそうに本当の事を「貴方の仰るとおりです」と話した。
当時、顧州の山中に珍獣がいて、それは馬のようで虎や豹を食べる。
契丹人は何か知らなかったので劉敞に尋ねた。
劉敞は「これはいわゆる駮だ」と言った。
その形状や声を説明するとその通りで、契丹人はますます歎服した。