蔡襄(さい じょう)
大中祥符五年(1012)〜治平四年(1067)
字・君謨
謚・忠恵
興化仙遊の人
天聖八年の進士
能書家として有名で茶や茘枝についての著作もある。
従孫に蔡京がいる



蔡襄の政治は清明で、特に閩人の風俗に通じていた。
賢者を礼遇し学業をすすめ、著しい害悪を取り除いた。
閩人はもとから学問を好み賦(韻文)で科挙を受けていた。
蔡襄は周希孟を先生として見出し経学を教えさせたので、教わる者はいつも数百人もいた。
すると蔡襄は自ら学舎に赴き経学を講義し生徒の模範となった。
処士の陳烈を師の礼で尊び、陳襄と鄭穆のように徳行優れた人物には矜持を棄ててへりくだった。
閩では凶事(葬式)を重視し寺を大切にして客を招き贅を尽くすのが孝行とされ、できなければ慙愧にまみれ、郷里の恥となった。
姦民、游手、無頼の子といった連中はこれ幸いと飲み食いをなし、銭を得てやってくる者は限りなく数千人にもなることがあった。
親が亡くなるとそれを隠して哭声を上げることも出来ず、必ず財産を売り払い用意を整えてから喪を発するようになった。
財力のある者はそれに乗じ田宅を安く買い叩き、貧しい者は証文をたてにされ、死ぬまで返済できない。
蔡襄は言った。
「これよりおおきな害悪があろうか」
ただちに禁令を下した。
巫女が病気をみて、蠱毒で人を殺すようなことは厳罰に処して根絶させ、民の間で聡明な者に医薬を学ばせ病気を治療させた。
従わない者たちには、それを箇条書きにして五戒をつくって教化した。
時が経ち、閩の人はとても便利になったと思った。
蔡襄はすでに去っていた。
閩の人達は連れ立って州府へ行き、蔡襄のために徳政碑を建てたいと請うたが、法律に反することだったので許可できなかった。
しかし、人々は蔡襄の善政を勝手に石に刻み込んだ。
「我が民に公の徳を忘れさせない」