蘇軾(そ しょく)
景祐三年(1037)〜建中靖国元年(1101)
字・子瞻または和仲
号・東坡居士
謚・文忠
眉州眉山の人
嘉祐二年の進士
北宋四大書法家の一人



杭州は長江と海に近く水が苦かった。
唐の時の刺史である李泌は西湖の水を引いて六つの井戸をつくり、民は水に不自由しなくなった。
白居易になってまた西湖の澱みを浚渫して運河に引き入れ、河から水をいれ、灌漑された田は千頃にも及んだ。
しかし湖水には葑が多く、しばらく治水をしなかったために二十五万丈にもなり、水はほとんど無かった。
運河、湖水は使えなくなり、海水を引き入れた。
海水は濁りが多く三年に一度は浚渫したが、市井の大患となり、六つの井戸も役に立たなかった。
蘇軾がやって来ると、二つの運河を浚い、茅山の運河は海水を流し、塩橋の運河は湖水を流させた。
また、堰閘を造り、湖水を調節させるようになると、海水が市に流れることはなくなった。
さらに余力で六つの井戸を完備し、また葑田を取り除き、湖中に沈めて長堤として、人を募って菱を湖中へ植えて、その利益で湖の修繕費に充てた。
杭州の人々はその堤を蘇公堤と名づけた。



蘇軾は恵州へ流され、末子の蘇過だけを連れて行った。
瘴癘が侵す地で蛮蜒に侮られながらも、意に介さなかった。
賢愚を問わずに皆とうちとけ、病に苦しむ者に薬を与え、亡くなった者は葬ってやった。
人々を引き連れて天橋をつくり、わたるのが難しかった人達を救った。
恵州の人達は蘇軾を敬愛した。
三年経ち、大臣(章惇)が流刑にされている者はもっと遠くへ流すようにしたため、紹聖四年、また瓊州別駕となって昌化へ移された。
昌化は人の住むところではなく、飲食物は不足しており薬などは無かった。
借り物の官舎は風雨を防ぐだけだが、有司がそれでも駄目だというので、土地を買って家を立てた。
昌化の人達は土や瓦を運んで助けてくれたので、三間の家屋ができた。
普通の人は耐えられないのに、蘇軾は芋を食い水を飲んで、書を著して楽しんでいる。
時には父老に従って遊び忙しかった。