蘇轍(そ てつ)
宝元二年(1039)〜政和二年(1112)
字・子由
号・潁濱遺老
謚・文定
蘇洵の子、蘇軾の弟
嘉祐二年、兄とともに進士となる。



司馬光は清徳と雅な声望によって朝政を取り仕切った。
雇役法の弊害をみて差役法に戻そうとしたが、双方が利害相半ばするのを知らなかった。
そのことを顧慮しないで一気に元に戻そうとした。
民衆ははじめはこれを聞いて喜んだがやがて首を傾げ始めたが司馬光は信じなかった。
王安石は己の説をもって詩書の新たな解釈をつくり、科挙にこれを適用させたので、学ぶ者たちは苦しんだ。
司馬光はあらためて新規格をつくろうとしたが難しかった。
まだ定まらないうちに蘇轍が言った。
「差役法を廃止してまだ二十年です。吏民はまだ慣れておりません。役法というのは多くに関わり、複雑で錯綜としたものでおもむろに運んではじめて行き届くものです。もし経緯をよく顧慮せずにいい加減に急いで実施すれば別の害が生じるやも知れません。現在各州県では役銭の余剰が蓄えられており数年は大丈夫です。暫定的にしばらく顧役法を用い、年末までに有司に監督させて差役法について審議させ、今年の冬に法をつくり、来年、郷民を役使し実施の後に苦情がおきなければ全てよろしいでしょう」
さらに言った。
「科挙ですが、来年の秋の実施まで時間がありませんのですぐには決めかねます。今変更すると、各地に伝聞して惶惑を免れません。詩賦は小技と言われておりますが、声律の勉強には時間がいります。治経になると憶えるのも理解するのも並大抵ではありません。なので来年までは現状維持とします。『来年の科挙は全て今までど通りで、経書の読解だけは注疏と諸家の学説を見解を参考にして、或いは自分の意見を述べ王安石の解釈だけにとらわれることは無い。法律の解釈はやめる』と公布していただきたい。全国の挙人(受験者)に定見があることを示し、勉学に専念させれば、科挙を受けさせればよろしいでしょう。科挙実施後、元祐五年以降の科挙の格式を議論しても遅くは無いでしょう」