曹彬(そう ひん)
長興二年(931)〜咸平二年(999)
字・国華
謚・武恵
枢密使・同中書門下平章事、済陽公
華北の真定郡霊寿の人
宋建国の元勲
曹彬と太祖(趙匡胤)は密かに天下について語り合い、太祖の心に適わないことは無かった。
しかし公堂での会議での曹彬は言葉を発せないのではと思われるほど何も喋らなかった。
こんな曹彬を見て太祖はますます彼を重用した。
後周の世宗の時、曹彬は酒と茶をつかさどる官吏であった。
そこへ趙匡胤が酒を求めにきた。
曹彬は「これは官の酒です」と言って断り、自分で買って来て与えた。
趙匡胤が即位した後、群臣に語った。
「世宗の官吏であった者で、主に背かなかったのは曹彬一人だけだった」
そして曹彬を腹心として蜀征討軍を監督させた。
蜀征討軍は各方面から進軍し成都で合流する予定であった。
そのため曹彬は全軍の監督が出来ず、それをいいことに王全斌等は横暴であった。
曹彬は速やかに軍を整えて集合するよう命令したが、彼等は従わなかったので蜀では反乱が続発した。
曹彬はなんとかこれを平定した。
成都を陥落させた時、兵が婦女を略奪してくると、その婦女を邸宅に入れて食物を支給し、「朝廷に献上する」という名目で厳重に警護させ、混乱が収まると、全員親元へ帰させ、親がいない者は結婚させてやった。
軍が帰還の途につくと、曹彬の輜重だけが異常に多かったのである人が太祖に「ことごとく財宝ですよ」と讒言した。
太祖が調べさせるとすべて図書で財宝の類は全く無かった。
王仁贍が先に帰還して王全斌らの悪事を上奏した。
太祖は笑って具体例をあげて「お前も同じようなことをしていたではないか」と言った。
王仁贍は恐れおののき「清慎廉格なのは曹彬ただ一人だけです」と言った。
蜀で王全斌が降兵三千を殺した。
曹彬は反対して、降兵三千を殺害するという文書に署名せずそれを持っていた。
彼等が帰還すると、太祖は調査を命じた。
左右の者は「今、蜀を平定して帰還したばかりです。降兵を殺していたとしても弾劾してはなりません。今後陛下はどうやって人を用いることが出来ますでしょうか」(多少ことは目を瞑らないと士気が低下しますよ)と反対したが、
太祖は次のように言って調査させた。
「そうではない。河東、江南、はまだ帰服していない。もし弾劾しなかったら、今後も軍を任せた者は人を乱殺するだろう」
調査が終わり、諸将は太祖の前に引き出された。
太祖は「どうして人を乱殺したのか」と詰問したが、「曹彬は下がってよい、君の事ではない」とも言った。
しかし曹彬は退かず、叩頭して罪に服して言った。
「私も(殺すかどうかの)論議の場にいました。その罪は誅戮されるべきものです」
曹彬を罰するわけにはいかないので太祖は全員を赦した。
そしてすぐに太祖は曹彬と藩美に江南征伐を命じ、曹彬に向かって言った。
「蜀で人を乱殺したようなことは絶対にあってはならない」
「陛下はご存知ないでしょうが、、私は蜀で乱殺には反対し決して賛成いたしておりません。ここに当日の文書があります。署名はしておりません」
と曹彬は言って、文書を提出した。
「そうであったのなら、どうして頑固にも自分も罪に服そうとしたのか」
「私ははじめ王全斌等と同じく軍を任されました。もし王全斌等が罪を得て私一人だけが無罪では穏便ではありません。だからともに罪に服そうとしたのです」
「罪に服そうとしていたのであればどうしてこの文書を持っていたのか」
「私は陛下が必ず誅戮するであろうと思っておりました。この文書置いておけば、(自分が処刑された後)連座して処刑される老母に提出させれば、老母の命を救うことが出来ます」
太祖は感じ入り今まで以上に曹彬を厚く遇した。
太祖は曹彬と藩美に江南征伐を命じた。
曹彬は「才能が無いので別の有能な人を選んでください」と総司令官を辞退した。
すると傍らにいた藩美は江南を取るべきだと力説した。
太祖は大声で曹彬を諭した。
「大将というのは、身分をわきまえない副将を斬ればいいだけだから、難しくは無いだろう」
すると藩美は俯いて冷汗を流し、顔を上げることが出来なかった。
そこで曹彬は命を受けた。
出発の前夜、太祖は曹彬だけを召してともに酒を飲んだ。
曹彬は酔いつぶれ、宮人に顔に水をかけられるような状態だった。
すると太祖は曹彬の背を撫でながら言った。
「心得よ、彼(南唐の後主李U)に罪は無い。私が彼を帰服させることが出来なかっただけだ。だから恩徳で彼等を帰順させて欲しい」
曹彬はみだりに一人も殺戮することなく江南を平定した。
曹彬は金陵(現南京)を攻撃した。
もうすぐ攻略できるとなったとき、急に病気だと言って指揮を執らなくなった。
諸将が見舞いに訪れる病状を聞くと曹彬は言った。
「私の病は薬では治らない。ただ、諸君等が城を落としたときみだりに人を一人も殺さないと誓ってくれるならば、自然に回復するだろう」
諸将は承諾し、香をたいて誓とした。
すると翌日には病は癒えた。
そして金陵が陥落しても城中が安堵している様子は以前と変わりなかった。
曹翰は江州を攻略したが、長く抵抗されたことに怒り、城内の民を皆殺にした。
曹彬の子孫は高い位にあって、今も栄えている。
曹翰が死んで三十年も経たないのに、彼の子孫は怪しい場所で乞食をしている者もいるありさまであると程頤が言っていた。
金陵を攻略すると、曹彬は麾下の諸将を引きつれ、宮殿の門にやってきた。
李Uは降伏し、曹彬は受け入れて言った。
「大宋に従うのであれば俸禄には限度があり、費用も嵩むでしょう。今のうちに準備なされば如何か。官に収容され官吏の管轄になると手が出せなくなりますよ」
そして準備のために宮殿に帰らせた。
落城前、李Uは宮殿に薪の山をつくり、「もし社稷を守れなかったら、一族皆火の中に飛び込む」と言っていた。
そのため諸将は曹彬を強く諫めて言った。
「不測の事態が生ずれば如何なさるおつもりですか」
「お前等の知るところではない。李Uの器量を見ると、懦夫女子にも劣る。自害など出来ようか」
李Uは曹彬に言われたように準備以外は念頭に無かった。
準備を手伝ってやるために曹彬は兵五百をだして、荷物の船積みを手伝わせた。
李Uは動揺していて持ち運んだ荷物は結局少なかった。
功により枢密使を拝命した。
曹彬は宥密に在って、常に公服を着てきちんと座り君父に対するようだった。
小吏に接する時も礼をもってして、名を呼ぶようなことはしなかった。
私邸に帰れば
閣を閉じてくつろぎ、みだりに五鼓がわずかに動けば(夜明けを知らす太鼓が鳴れば)、すでに入朝を皇宮の門で待っていた。
雪や霜の日であっても操をかえるようなことはなかった。
このようなこと八年だった。
曹侍中(曹彬)のひととなりは仁愛にして多恕である。
数国を平定していまだに妄りに人を斬った事が無い。
かつて徐州の知事だった。
吏員で罪を犯したものがいて、すでに判決が出ていた。
年を越してからこの吏を杖罰にした。
人々はどうしてそうしたのかわからなかった。
曹彬は言った。
「私はこう聞いている。この人は新たに婦を娶ったと。もし彼を杖罰にすると舅姑はかならず婦に良い事は無いだろうとこれをにくみ、朝夕に笞罵してみずから存することができなくなるだろう。私はだから緩くしたのだ。しかしながら法もまた赦すことは出来ない」
その志を用いるのはこのようであった。
曹武恵王(曹彬)国朝の名将にして、勲業の盛んなことは共に比する者がいないほどであった。
かつて言っていた。
「私は将となってから人を殺す事は多い。しかしいまだかつて私の喜怒をもってたやすく一人を戮したことはない」
その居る所の堂室が弊壊した。
子弟は修繕したいと願った。
曹彬は言った。
「時はまさに大冬。牆壁瓦石の間は百虫が冬眠している。その生をそこなってはならない」
その仁心が物を愛するのはこのようであった。
すでに江南を平定してかえり、閤門に詣って謁見した。
牓子(天子に謁見する時にささげる書)には「勅を江南に奉じ、公事を幹当(処置)してかえる」とあった。
その謙恭にしてほこならないことはまたこのようであった。