曾鞏(そう きょう)
天禧三年(1019)〜元豊六年(1083)
字・子固
諡・文定
建昌南豊の人
嘉祐二年の進士



天子は曾鞏が賢明であると察し用いようとした。
ある日、中書に詔を下した。
「曾鞏は史学者として士大夫の間で称賛されている。五朝(五代)の歴史を編纂させよ」
そして修撰となった。
近頃は国史を編修するのに、必ず文学者を選び出し、大臣が監督する。
五朝の歴史を曾鞏一人に託した今回のようなことは今までに皆無であった。
曾鞏はずっと討論して、まだ草稿を書いていなかった。
たまたま官名が改められ、中書舎人(勅命起草官)に選ばれた。
謁見して礼を述べる間もなく職務に就かされた。
この時、三省から百執事にいたるまで官名人事を一新し、辞令を下された吏員は日に数十人もいた。
曾鞏は人ごとに職務内容を挙げて戒め、その文辞は簡潔でありながら義を尽くしてあった。
人にとは三代の風格がある言い、帝もしばしばその典雅さを称揚した。